中森明夫生き恥をさらした日!!
エピソード・1

 

(『ダークサイドJAPAN』第二号所収!)

 

サブカル界の黒幕、絶望の時

 

 中森明夫と言うライターがいる。

 『SPA』や『噂の真相』などで「黒幕」を自称する人だ。ただし、黒幕とは言っても、おそらく本人が勝手に自負しているほどには影響力のある人ではないのだが、確かに20代〜30代のちょっとサブカル好きな一部の編集者には支持されているのだろう。

 この春に『噂の真相』誌で、中森明夫・浅田彰・田中康夫のゴーマンな座談会記事が掲載され、ボクは不快感を抱いた。例えば座談中で黒幕氏はかつて親しかった宮台真司(社会学者)を鉄人28号に例えて、「自分が操縦桿を手放したらワケが分からない方向へ飛んで行ってしまった」などと放言。憤った宮台はインターネット上で反論というか黒幕論を記していて、面白く読み笑わせてもらった。 

 さて、ボクが初めて中森と会ったのはもう15年以上前の80年代前半の事だった。当時はボクも彼も大学生だった(黒幕氏は高校中退と自称しているがその頃は某大学へ通っていた)。年齢的には3歳年上で(黒幕氏のプロフィールには60年生まれとあるが実際は59年生まれ)、一時期は親しくさせてもらっていた。

 ただ、知り会ってすぐに仲良くなったわけではなく、80年代後半頃が一番親しかったと思う。彼が書いた小説をデータマンとして手伝わせてもらった事もある。当時のボクはフリーターみたいなもんで、売れない原稿を書いたり、他のアルバイトをしたり、とフラフラしていた時期だった。

 そして、90年にボクは「宅八郎」と言うペンネームで、ライターとしてリ・デビューする事になった。そのほぼ1年後くらいから、彼とは距離ができていった。その頃彼から言われた言葉を思い出す。「君は僕の手の平の上に乗る人間ではなくなったから……」。その時は少しさびしくも感じたが、冷静に考えるとスゴイ言葉だ。さすが黒幕だ。

 しかし、その後も「自分は宅八郎の後見人」といった顔をされ続けられたのには苦笑した。ただ、さすがにボクの怒りを恐れてか「自分の弟子」と言う表現だけは絶対にしなかった(石丸元章に対してはさんざん「弟子」と記しているのにね)。そして、95年頃「ある理由」により彼との関係は断絶した。読者にはよほどの事があったのだろう、と思ってもらって構わない。

 さて三年前、97年の事だ。ボクはこの中森明夫を陥れた事がある。イヤ、おとしいれたと言うのは実は正確ではなく、その意味では罪悪感はない。しかし、結果的に「自滅」に追い込む「お手伝い」をした事には間違いない(笑い)。そこでいくつかの込み入った事情を読者に説明する必要がある。その上で紙数の限界を考えればやや乱暴な説明になってしまうかも知れないが、御容赦願いたい。

 

1997年、あるムック本がきっかけだった

 

 97年夏の事だ。ボクは単行本『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス)の執筆制作中で多忙を極めていた。そしてこの本のフリー編集者がライターの金井覚だった。当時も今も変わらないが、ボクは編集者からの原稿の催促に本当に弱い。「何でもするから、もう少しだけ待ってくれ。お願い」と、情けない態度を見せてしまう。

 そこで、締め切りを待ってもらう代わり(裏取引みたい)に、金井が相談事を持ちかけてきた。かいつまんで説明しよう。
 その少し前に、本誌『DSJ』編集長・久田将義が、当時在社していたワニマガジン社で担当したムック本に、金井が原稿を書いた事があった。「ある音楽ライター」の情けなさを小馬鹿にしてからかうような内容の原稿だった。モデルの有無を明示していない文章だったが、確かにモデルとして書かれた人間には不快になるような底意地の悪い原稿だった、とは思う。
 実はその原稿ではボクも取材を受けていて、意味なくツーショットの写真まで載せられていたのだが、金井としては「保険」をかけるような目論見があったのだと思う。つまり、ボクを出す事で(自分のバックには恐い宅さんがいますよ、と)、抗議にさらされないよう手を打つ意図が見えたわけだ。
 ところが、モデルとされた当の音楽ライターは藤井良樹(ルポライター)、中森明夫らをバックに伴うような形で抗議してきたのである。まるで「代理戦争」だ(笑い)。
 具体的には、金井原稿に対して発行元のワニマガジン社に抗議と公開討論会を開く旨の内容証明郵便が送られてきたのである。ここで説明が必要になる。

 

素人にむきになる黒幕氏

 

 かつてライターズ・デン(以下、ライ・デン)と言う「学校」(私塾)があった(95年11月創設98年頃消滅)。「学校」と言うのは主催者達が自称していただけで、認可されたものではないから、まあマスコミに興味を持つ人達のサークルだと考えられる。
 主宰者はルポライターの藤井良樹で、中心メンバーが黒幕こと中森明夫。講師陣には宮台真司や、先に触れた音楽ライターなど、いわゆるサブカル系若手文化人らがいた。
 そして、金井原稿には「あるマスコミ学校での授業風景を盗撮した」という描写があって、これをライ・デンに対する悪質な妨害活動である、などと抗議してきたのである。

 ところで、同校の「校長」は藤井良樹だったが、『週刊SPA』の連載「中森文化新聞」に、昔ライ・デンに関する原稿を書いた事のある人は次のように言った。
 「中森さんから『藤井君が怒ってるから原稿中の表現を直せ』と言われたんです。ところが藤井さんとは親しくさせてもらっているし、そんな細かな事言う人じゃない。それでああコレは藤井さんじゃなく、中森さんが直させたいんだな、と直感しましたね」
 また「間違いなく中森さんがコントロールしてる印象でした」と、ライ・デンの元受講生何人かは語った。うまくいかなくなっても責任を取らなくていい立場に身を置く。さすが黒幕のやり方と言うところか(笑い)。
 また、ライ・デンの授業中にイヤミな生徒(客)からイヤな質問を浴びた際にも、藤井よりもむしろ中森が激怒して、素人相手に言い負かすような場面が何度もあったと言う。これを見ていた人達に話を聞くと、言い負かす能力の高さ以上に「何て感情的な人なんだろう」と黒幕氏への驚きを口にした。 

 確かに黒幕氏はかなり「勝ち負け」にこだわる性格だったように思う(後出しジャンケンしないなら、それはそれでいいのだが)。
 そう考えると、前述の抗議文書は差出人・藤井で郵送されているが(文書は連名)、「金井糾弾に向けて最も熱を上げていたのは中森さんだった可能性が高いですよ」と当時の関係者は語った。

 

抗議書の論理的破綻

 

 さて、話を元に戻そう。出版社に届いた内容証明のコピーは、担当者の久田から著者の金井に渡っている。そして、あわてた金井はその抗議文書をさらにボクにファックスしてきたのだ。泣きついてきた感じで、当初は腰が引けていて、公開討論からは逃げようとしていた金井をボクははげました。「わかった。ボクに任せろ。始末する」。
 すると、金井は「じゃあ、弁護士代わりに宅さん、横に付いてきてくださいよ」と言って来た。ボクは「それはさすがにできないよ」と断って、ていねいに「指南書」を作る事にした。近距離接近パワー型のボクなら、何も考えずにその場に行くが、人に指南するのは骨が折れた。

 改めて抗議された金井原稿を確認したところ、名文とか上品な原稿だったとは言うまいが、特に「抗議」の対象になるような問題はなかった。むしろ、抗議してきた側の言いがかりにも近い論理に無理を感じた。
 ライ・デン側から送りつけられた「抗議・公開討論会出席要望書」にはかなりの問題点を発見する事が出来た。まるで弁護士が使うような言葉をヘタに模倣した印象の文書だった。全文引用したいが、紙数上それは出来ない。ただ、最も重要なことはこれが出版社側には届いているのに、著者・金井には届いていない事だった。なのに、出版社側に「金井の出席」を要望しているのである。出版社(飼い主)にライターを飼い犬のように突き出せ、と言っているのも同じだ。ああ、「上」に言い付けたかったのか。

 また、討論会場としてはライ・デンも金井もイベントを多数やっているから、との理由で「公平な場」としてトークライブハウス「ロフトプラスワン」が指定されていた。
 何故、それが「公平な場」になりえるのか無理も感じたが、出版社(ワニマガジン社)にとっては、「ロフト」でのイベント開催の実績もなく、なおさら論理は不明だった。しかも、中立性を強調しながらも、討論会はライ・デン主催イベントとして開催すると言うのだから噴飯ものである。

 彼らから送られてきた「抗議文」中の論理的破綻を一つずつ見つけだし、ブロックに分けて完璧な反論を逐一加えた文書を作ったのである。ヘンシツ(変質&偏執)的と言えるほど皮肉な計算による論破を目指したことは言うまでもない。これは金井にとってのアンチョコにもなり、また会場に集まる客に配布することにもした。討論会が大荒れになった場合、論理的な文書が形になって「残される」ほうが相手にとってはダメージは大きいからだ。

 ただし、当初、ボクが用意した文書はあまりにもケンカ腰で激烈だったために、金井が恐れをなして、もう少し「優しい表現になりませんか」と言われ「です・ます調」に優しく直したりもした(笑い)。

 

自信満々で公開討論に臨む黒幕氏だったが…

 

 そして、公開討論会の日時が10月18日に決定され、『週刊SPA』の連載「中森文化新聞」にかなり鼻息の荒いイベント告知が二回も掲載された。そこには「ライターズ・デンは堂々と直接やる!」「マスコミ関係者大歓迎」などと書かれていた。
 また、イベント告知には「討論会」出演者として中森、藤井、音楽ライターの名はあっても金井の名は一切書いてない。これも見逃せない点だった。利用しない手はない。ボクは配布資料にその不当性を書き加え、金井目当ての集客が期待できないものとして、「出演料受け取りの拒否」を金井にさせることにした。

 さて、実は公開討論のたった数日前に、ボクはある人物に会っていた。『週刊SPA!』の中森担当編集者のH氏である。ボクはそのHとは親しい関係だったが、普段は黒幕氏の話をする事はなかった。ところが、何故か、その日彼の方から「公開討論会」の話題を出してきたのである。いわく「金井君も可哀相だね。ディベートで中森さんにかなうわけないよ」。
 まるで担当する中森から事前に「金井をやっつけてやる!」とでも聞かされている様子だった。そして、Hも黒幕氏の強さを疑ってはいなかった。ボクはまさか「自分が金井君にていねいにアドバイスしたから大丈夫ですよ」とも言えず(笑い)、適当に話を流した。

 この黒幕担当者の言葉に現れているように、当日中森は自信満々でこの「ディベート」に臨んだハズである。まさか、この日が生き恥をさらす日になるとは思わずに……。

 

会場は野次、怒号に包まれた

 

 そして、運命の日、97年10月18日がやってきた。居合わせた複数の人の証言に基づいて記述する(金井側の人間、店側の人間、お客さん、ライ・デンの元生徒など)。

 とにかく、金井はボクの指示どおりに開始直後にプリントを配った。そして、中森は「今日は糾弾とか吊し上げを行うつもりはない」と会場で宣告しておきながらも(これも論争術の一つなんだろう)、まず金井に「今日は言質を取らせてもらう」と迫っている。この「言質」と言う中森発言はまあ、威嚇や恫喝に類するものだろう。こちらのペースで進めるようとする意もくみ取れる。しかし、この程度の事はボクも予想していた事だから、ていねいにレクチャーしておいた金井の態度が崩れるはずもなかった。
 「一方的な糾弾を目的としない」としておきながら、当初のライ・デン側の抗議文では、「金井側の主張・意見に正当性があるかどうかの判断はライ・デン側がする」と記されている彼らの馬鹿な論理の破綻は、当然金井に配らせたプリントで追及している。

 ただし、これは誰にも予期できなかった事だったが、会場からのヤジが飛び交い、議論の応酬が激しく交わされると言うより、すっかり「討論会」の体をなさなくなってしまったようだ。親・金井と言うよりは、反ライ・デンと言うムードに会場は包まれていったと言う(その意味ではボクの協力は微力に過ぎなかったとも言える)。それだけ中森明夫なりライ・デンなりへの不快感は客や生徒達の間で熟成されていたのだろう。
 いたたまれなくなって、黒幕氏らは夜9時頃には早々に会を打ち切って、逃げるように帰っていったと言う。イベントの告知はしても、事後報告をしなかった事からも、「逃げた」と言われても仕方あるまい。お気の毒なのは件の音楽ライター氏だ。当てにならない黒幕のおかげで、むしろ傷は残ったハズだ。

 すべてが終わった後で、その日ボクは金井からファックスを受け取っている。無論、「宅さんのおかげでがんばれました」とお礼の言葉が記されていた事は言うまでもない。

 黒幕氏にとって、この日の出来事はよほどの屈辱だったに違いない。これを機にロフトプラスワンでのライ・デンの授業は消滅、彼は店に出入りする事さえ無くなったと聞く。大見得を切っておきながら、人前で大恥をかかされ、論理面でも敗北し、それが証拠となって残されたのだ。このことは大きい。
 しかも、黒幕氏にとっては金井を手強い相手だったとは考えていなかっただろう。金井には悪いが、言わば黒幕氏は「金井ごとき」に負けたわけだ。そのプライドはズタズタになっただろう事は想像に難くない。

 

恥ずかしい言い訳

 

 その約一ヶ月後の97年11月24日、東大駒場キャンパスで、中森明夫、藤井良樹、宮台真司の三人が講演を行っている。講演終了後、中森と藤井は分かれて解散したというが、その打ち上げで中森が引き連れていった人間から話を聞いた。講演の壇上ではさすがに暴言、失言はしなかったものの、打ち上げの二次会ともなれば気を許したらしい。

 黒幕氏は「あの日は客が金井のサクラばっかりだったから、うまくいかなかったんだ」とか「アンフェアだ」などという言葉を吐いたと言うのである。みっともない!
 よほど悔しかったのであろう。

 黒幕氏の自己正当化が目に見えるようだが、そりゃ無理だ。何故なら全国売り週刊誌で、二回も一方的なイベント告知宣伝をした事実はどうなるのか。まさに自分にとって都合の良い「サクラ」客を集客しようとしていた事に他ならないからだ。そして、間違いなくその日の討論会場にはライ・デン生徒の他、『SPA』の告知を見てきた「中森ファン」も多くいたはずだ。その中で彼は負けたのである。恥ずかしー。いくら彼が「負け」を認めたくなくとも、「あの日」彼が負け犬として逃げ出した事は間違いない。

 また、しばらく経ってからの事だ。ロフトプラスワンの現店長がバッタリと黒幕氏に会った際に、「久しぶりにイベント出演をお願いできないか」と声をかけたと言う。
 しかし、中森明夫はまたも「あの日」の事を引き合いに出し、「あんな事」になったのは店(オーナー)の責任でもある、と出演を断った、と伝え聞いた。オイオイどこかで何かを転嫁してはいないか。まあ、彼にとってはよほどの「あんな事」だったのだろう。

 ボクはここ数年間の『SPA』を1ページも読んでいない。しかし、数年前から「中森文化新聞」がまったく面白くなくなったと言う声をよく聞く。仮に黒幕氏がどこかで変節したとしたら、「あの日」の敗北がトラウマになっているのかもしれない。

 そう、その日は「中森明夫が生き恥をさらした日」だったのだから。

(エピソード1/終わり)

 

 

*この原稿については金井覚が反論(というか補足)したいという意向があったようです。
事実誤認がある(笑い)とのことですが、その旨御承知おきの上お読みください。

 

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