田中康夫本名を連呼し続けた!!
処刑暫定版・1

 

(2003年7月18日)

 

県知事という立場にある人が…

 

 2003年7月18日は長野県庁表現センターでライブがあった……。

 ボクの名前は宅八郎。  これは本名ではない。あくまでもメディアの上に乗ったペンネームである(あるいは芸名という理解でも構わない)。また、本名はあえて公表していない(あえて公表されたくもない)。
 これは生活上の利便性であるとか、さまざまな理由があるが、それはボクの「勝手」だろう。本音を一つ言ってしまえば、本名で呼ばれることはお役所(区役所とか警察署とか税務署)くらいになってしまっていて、すでにアイデンティティは「宅八郎」というペンネームにあるとさえ言える。 
 だから人と会う場合、ほとんど本名を伝えたことがない。呼ばれる回数からしても、認知度は全然違うのだ。 

 ところが、世の中にはお節介にも「本名を公開していないことを良くない」と考える人がいる。人の勝手だろう。何か隠し事をしているとでも言いたいのかもしれないし、正々堂々としていないと言うのかもしれないが、堂々とボクは「宅八郎」と名乗っている。
 有名人や芸能人の場合プライバシーは制限されているという指摘はあるだろうけど、例えば原稿を書き記したりする際に「宅八郎」と署名しないことのほうが、「宅八郎」に関わる場合にはよほど無責任になるのではないか、ということだ(別のペンネームを持つという考え方は芸域を広げる上ではあってもよいかもしれない)。
 そんなわけで、メディアの上では本名を名乗ることに何の意味があるのか、よくわからない。

 しかし、世の中にはお節介を超えて卑しい人間がいるのだね。それは公開していない本名を「暴く」ことが相手のダメージになると考えている人間のことだ。そんな考え方、卑しくないか。もっと議論のパフォーマンスを上げるなり論理で相手と対峙しようとか、色々やることはあるだろう。

 

プライバシーにこだわる田中康夫!

 

 ところが、2003年7月18日の長野県知事会見で、田中康夫はボクの質問を受けて、何回もボクが「宅八郎だと呼んでくれ」とただしているのにも関わらず、何度となく本名を叫び続けたのだね。

 県知事という立場にある人間が、だよ。先にも述べた理由もあって、“こうした場では”不適切なプライバシー侵害だとも思うけど、もしもボクが在日韓国朝鮮人で日本名の通名を名乗っているような立場でも平気で同じ事をしたのかね。芸能人が犯罪を犯して逮捕された時などは「戸籍名+容疑者」で報道されることが多いが、それはどこか警察の片棒担ぎのようでもある。しかし、この知事会見でボクは「犯罪」を犯したわけでもない。

 それで、ボクがなぜだろうと不思議に思って「本名を呼んだところで、この会見ではまったく意味がないでしょう」というようなことを尋ねると、田中康夫はこう言った。
 いわく「タモリさんが森田一義さんであることは周知の事実であり、同じこと」だと。アノね、タモリはもう20年も続いている人気番組のタイトルとして公然と『森田一義アワー笑っていいとも!』を使用してるんだよ。
 公表している場合と公表していない場合、すでに認知されている場合と認知がまったくされていない場合が同じなわけがないだろう。また、その場にいた誰もボクの本名を知っている人はいなかったはずだ。

 話が飛ぶが、例えば朝鮮半島の研究者であれば、誰でも北朝鮮を建国した金日成主席の本名が金成柱だということは知っているが、北朝鮮を語る際に、一言触れおくくらいならともかく、すべて「金成柱」という名前で語ったとしたら、誰について何を語りたいのか、わからないマニアックすぎる文章になってしまうだろう。
 要するに金日成は金日成として認知されてしまっているわけだから、「金日成」と記していけばそのほうが都合がいい(マニアックすぎる文章書いちゃうと、朝鮮語の表記の問題で言えば金一星と書いてもまったく同じ表記になるが、まあいいや、そんな話)。

 言いたいのはメディアの上では「宅八郎」というペンネームによって、その公的性格(キャラクター)が保持されているということだ。
 やや特殊な例もある。例えば、「オウム真理教(現アーレフ)」といった記述である。この場合は、“すでに認知されすぎている”という判断なのだろう(それにしてもアーレフと記すわけだが)。

 どちらにせよ、ボクの場合は「宅八郎」を名乗り、本名のほうはまったくといっていいほど認知されていないから、知事会見という場で例外的な扱いを受ける筋合いはない。無論、その場で質疑応答をしている新聞記者やテレビ局員が名乗っているのは、(そりゃ本名だろうが)あくまでも「自己申告」名である。知事会見の冒頭で田中康夫は「名乗ることで責任の所在を明らかにしましょう」と言っているのだから、本名である必要はないと思う。むしろ「宅八郎」としたほうがより責任の所在は明らかだろう。

 

むきになる田中康夫県知事

 

 付け加えておくと、ボクの本名はさほどよくあるような名前ではない。漢字を読めない人もいるくらいだ。その少し珍しい名前を田中康夫が叫び続けたことに以下のようなことを感じた。これがボクがこの文章で一番言いたいことだ。

 それはこういうことだ。ボクから過去に受けた恐怖と強度のストレス(笑い)が、彼をして本名を記憶させてしまっていた可能性が一つ。
 もう一つの可能性として、知事会見のスタートが予定よりも15分ほど遅らされたのだけれども、その短い間に出版社あたりにでも電話して、ボクの本名確認をして、あわてて会見に臨んだ可能性(笑い)。
 どちらにしても笑えなくもない。しかし、安易に「公表していないプライバシー」に踏み込んでまで、ボクと相対しようとする田中康夫の言動は、県知事の態度としてはあまりに軽率ではないか。

 まあ、「目には目を、歯には歯を」というボクの行動原理からすれば、田中の言動はむしろ都合が良いと言えなくもない。罰を与えるだけの話さ。当然、彼は一作家であるだけでなく、政治家という明らかな公人だからプライバシーは無いに等しく極端に制限されているわけだけど、今後ボクは彼のプライバシーを徹底的に洗っていくだろう。

(暫定版その1/終わり)

 

 

*この原稿は暫定版その1です。

 

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