田中康夫問題入門編第二章!

 

朝日ジャーナル1992年5月15日号検討する!!

 

■ボクが問題にしている11年前の田中康夫の記事を引用して検討していくことにする。まずは『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)1992年5月15日号掲載記事だ。ただし、5ページにわたっている対談記事を全文引用するわけにもいかないので、重要な部分は発言の始まりから終わりまでを引用、あとは“○○○”で部分引用の形にした。
 しかし、切通理作のような「文意をねじまげた引用」をするような卑怯なマネはしたくないので、引用に当たっては最低限、文意文脈を損ねないようにしている。その上で記事をブロックごとに分けて、※印を付けたボクのコメントを加えていく。■(宅八郎)

 記事のタイトルとリード文は以下のとおり。

(タイトル)
「表現者」が衰弱した時代〜カルチャーはどこへ。

みんなマーケッターになってしまった

(リード文)
 アート、映画、音楽、小説、テレビ……、カルチャーを創っていく「表現者」たち。本誌(引用者注・『朝日ジャーナル』のコト)が半分は冗談(?)、でも半分は本気で、彼らを「若者たちの神々」とうたったのが八年前。以来、「神々」の姿は大きく変わった。カルチャーはどこへ行こうとしているんだろう。

 

※やや長いし、冗長であるが、まずは最初のやり取りを以下に引用しておく。

(本文)
武田 図式的に整理すれば八〇年代の半ばが分水嶺になっていて、経済のバブル化と同時に広告出稿も急増した。その収容先として新雑誌が続々と創刊されたし、ニューメディアも多く現れ始めた。つまり表現欲求の高まりを必ずしも伴わずに広告媒体としてメディアの器が極端に大きくなってしまった事情があったと思います。特にマーケティング系の企画担当者向けのネタ取り雑誌が多く出現し、若い人にも読まれるようになった。それが若者文化に少なからぬ影響を与えたわけでしょう。

田中 みんな代理店になってしまったんだよ。絶対になきゃ駄目ってものではないけれど、でも、あると便利な潤滑油みたいな黒子的存在でしょ、代理店って。たとえばファッションショーのプロデューサーとかね。いてもいなくてもいいわけです。服を作るのはデザイナーだし、モデルはすでにウオーキングを会得している。やるべきことといったら、音楽を適当に選ぶくらい。でも、気難しいデザイナーが直接するよりは、モデル受けのいい人物が担当した方がステージ上での彼女らの表情も生き生きするかもしれないでしょ。空間プロデューサーも同じ。みーんな潤滑油。で、その手の人が世の中を作っている。格好いい、それをウオッチすることこそトレンディーだ、みたいな空気になったのが八〇年代だと思う。でもね、実際に体を使って物を作る人がいたから株や為替で食える人も存在し得たように、潤滑油は飽くまでも潤滑油なんだよね。なのに、潤滑油がクリエーターとしてもてはやされてしまった。
(注・このやり取りには“「潤滑油」がクリエーターとしてもてはやされる時代”というキャッチが付けられている)

※二人のこの最初のやり取りに関しては、ボクとしてはどうでもいいことで特に関心はない。
 まあ、田中康夫という人間がかつて80年代に企業のマーケティング担当の「顧問」のようなことをしていて、いかに「代理店」的な仕事をしていたか(『田中康夫のトレンドペーパー』というズバリなネーミングの会員制雑誌を発行していたこともある)。まさに「潤滑油」として銭をいっぱい稼いでいたか、を知っている人間からは失笑モノの発言ではある。
 この後、話は80年代文化が「内ゲバ」で滅びつつあるという展開をし、武田は
“個人の表現活動よりも先にメディアの情報がある”と発言、さらに“個人の表現力は貧困になる一方だと思うんです”と嘆く。
 対して田中は“テレビドラマもね、昔だったら初めに山田太一の脚本があったわけでしょ”と、かつては脚本家のアイデンティティがモノを言ったが、今では“プロデューサーやディレクターが表現したいことを若手の脚本家が書いている”と応じる。そして武田は“別に言葉による表現だけに頼れとは言わないが、あまりにも自分のことに対する語彙が貧困になってると思う。特に書き言葉が貧しい”と田中に言葉を投げかける。
 それに対して「作家」田中康夫は何を言ったか。

田中 書くという作業はかったるいからね。それで、テレビという世界に逃げた、そこそこには頭も回転するプロデューサーがアイデアと部分部分のディテールをペラペラペラと喋って、実際に書く作業は脚本家に下ろすという傾向がでてきたんだと思う。で、その脚本家は、自身にはアイデンティティのない職人化している。

※テレビという世界が、活字の世界から逃げ込む場所なのかは、ボクにはよくわからない。あるいは97年7月2日の日記では“TV屋”という発言もしているから、こいつなりの放送業界関係者に対する特殊な思いがあるのかもしれない。
 またこの対談が行われた92年当時のテレビドラマの状況(山田太一以降のテレビドラマ)を、田中康夫がどの程度知っていたかもかなり疑問である。94年5月30日の田中康夫の日記によれば“TVも家では付けたことが何年もない”と記しており、95年8月9日の日記によれば“一ヶ月に三分間もTVを見ない僕”と記している(『東京ペログリ日記』)。
 この後、ボクにとっては大きな問題発言が飛び出す。

 

オタクを「決めつけ」で語る田中康夫

 

田中 改めて述べるまでもなく、宅八郎も本当のおたくじゃないわけですよ。憎しみのあまり、相手のポストから年賀状を盗む。この行為のみを取り出して考えれば、おたくだと思う。でも、本当のおたくは、そのことを人々から追及されたならば、こう言うべきでしょ。「確かに盗みました。あいつが許せなかったからです」とね。我独り行かん、と体を張って言い続けてこそ、また、そのことで自滅してこそ、おたくなんだよ。なのに、彼はすべてオチャラケでいこうとしている。糸井重里の「へんたいよい子」と同じいい加減さね。いい加減じゃないからこそ、おたくなんだよ。それに、おたくがあんなに喋って、テレビにいっぱい出てくるわけがない。

※ボクが本当のおたくかおたくでないかは、「評価」「論評」の問題だからどちらでも構わない。問題はボクが窃盗罪を犯したと断定していることである。容疑がある、という表現ではなく、ハッキリ盗むと断定して発言している。また、自白することをアドバイスしているが、当然窃盗罪を犯したということが前提になっている。
 さらに、窃盗罪の行為=おたくだという判断はあまりにもひどいと思う。おたくは犯罪者なのか。そして本当のおたくは自白するべきだ、そして自滅してこそ、おたくなのだという論理はまったくわからない。
 この人のおたく観は単なる決めつけであって、論理にはなっていない。それは、おたくはテレビに出てくるわけがない、という最後の発言にも明らかだろう。おたくは喋っちゃいけないのか、おたくはテレビに出ちゃいけないのか?
 また「へんたいよい子」に関しては次回言及する(笑うよ)。
 さらに、田中康夫のボクに対する憎悪が感じられる発言は続く。

田中 結局、宅はM君を弁護するような資格はなかったことが、今回の一件ではっきりしたね。文学だと称しながら、殺人犯の本名をタイトルに入れて、しかも、単行本の最後数十ページを使って、その殺人犯から届いた手紙のコピーやら地図やらをワイドショーよろしく載っけて荒稼ぎした唐十郎とかいうおっさんと一緒で、単なる商売人だったんだよ。それだったら、マジで怒っている『週刊プレイボーイ』のコミネの方が、よほど表現者らしい。

※発言中のM君というのは89年に起きた連続幼女誘拐殺害事件の容疑者のことである。唐十郎に対しても憎悪が感じられるが(笑い)、それはボクは知らない(推察すればベストセラー作家に対する「単なる」嫉妬だろう)。M君を弁護するような資格って何? 単なる商売人だとボクを評しているが、田中自身が単なる商売人であることを一つ一つ確認していくのも一興であると考えている。長野県の県政が単なる商売人にゆだねられているとしたら、問題だ。
 また、コミネのほうが、よほど表現者らしいという論旨は意味不明である。マジで怒っているというのが、その理由だと言うなら、ボクがマジで田中康夫に怒っていることも確かだ。
 一連の田中発言に対して、対談相手の武田は話を受け流している印象である。ここで武田は「宅八郎・香山リカの登場とメディアのあり方」について一歩引いた発言をするが、康夫はさらにボクに対する発言をやめない。

田中 アイドルタレントと一緒だよね。宅は電波メディアの時代における「表現者」のつくられ方だったと思うんだよね。活字って、どんな書きなぐりであっても、一応は論理が展開していないといけないわけです。でも映像は突き詰めてやっちゃいけないところがあるじゃないですか。手を抜くという意味ではなくてね。どこか、す(引用者注・原文傍点)の部分がないと、見ている側の息が詰まってしまうんだよ、テレビって。だから、あまりにも論理的な展開のできる人ってテレビの作り手としても作られ手としても、その能力がマイナスに働いてしまうと思う。

※アイドルタレントと一緒、という発言はボクにとって正直うれしい(笑い)。文意としては、ボクが電波メディア=テレビの「表現者」(カッコを付けていることに田中なりの意味はあろう)であって、活字の表現者ではないとしているように読める。
 さらに活字は論理が展開していないといけない、と続けているから、おそらくボクには論理的な展開をできる能力がないと考えているのだろう。ボクは一般的に論理的な人間かどうかはわからない。ただ、世間の「論理」は知らないが、少なくともボクは「自己の論理」には忠実だと思う。
 しかし、田中康夫が論理にどれだけ忠実か、明らかにされる必要があるだろう。それは作家という表現者としても、あるいは長野県知事という政治家としても、だ。
 その後、康夫は“表現者は愚直なまでに自身の生理に忠実であらねばならない”とか“愚直であればこそ、好きなときに好きなことをできる”などと表現者論をぶっている。そして“‘永田町・大手町見てきた風のことをいい’メンタリティーが信条の田原総一朗に代表される便利屋さんが表現者になっている”と苦言を呈する。
 今はその田原総一朗の番組『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)に大喜びで出ているのは誰だっけ? 二人は表現者論を語っていくが、ここでまた田中の口からボクの名前が発せられる。

 

「過去の言行に対するおとしまえ」

 

田中 みんなフォニー(まがいもの)なの。山本コテツが『月刊プレイボーイ』の、それも貧乏特集でね、「僕は空間プロデューサーやってるころから、あんな時代が続くわけがないと思ってました」なんて、のうのうと言ってるわけですから。宅や田原と一緒で、上手に世の中を渡るフォニーばかりが、過去の言行に対するおとしまえ(注・原文傍点)を全然求められずに生き長らえる。フォニーにはなりたくない、という矜持のある人間の方が突き詰め過ぎちゃって自爆しちゃったりする。
(注・この部分には“上手に世の中を渡るフォニーばかりが生き長らえる”というキャッチが付けられている)

※この発言からはボクが“上手に世の中を渡るフォニー(まがいもの)”ということになっているが、そうなりたいくらいだよ(苦笑)。世渡り上手な、まがいものが誰なのか、「過去の言行に対するおとしまえを全然求められずに生き長らえる」人間が一体誰なのか、ハッキリさせていくコトにしようじゃねえの! そういう発言をするからには、田中康夫自身にも過去の言行に対するおとしまえをキッチリつけさせてもらう!
 この後、対談は誰がフォニーか、誰が“非常にまっとうで、ぶきっちょな表現者”なのかなど触れている。そして、“マーケティングとか、プレゼンテーションとか、ブレーン・ストーミングとかがいけなかったよね”と康夫は発言し、“みんな、プレゼン向きの用語とかを使うことが素敵だと思ってる。人がどうであれ、自分が思ったことや、したいことをやってこそ表現者なのに、いかに気に入ってもらうか、いかに反発買わないかばかり考えてる。”と言っている。
 しかし、この人は96年2月22日の日記ではテレビ番組のブレーンストーミングについて、“かくなる作業が有ればこそ本番生放送でも活きた遣り取りたり得る”と記してるんだよね(『東京ペログリ日記』)。何だ、こいつはその場の思いつきを口にしてるだけじゃないか。
 だいたい「いかに気に入ってもらうか、いかに反発を買わないか」を考えて「長野県知事選」という選挙戦を闘ったんじゃないの? 発言者には発言に対する自らの態度や責任が求められることを、よ〜く康夫に知ってもらうことにしよう。では、最後の二人のやり取りを引用する。

田中 企画書って、クリエーションを駄目にするよね。まさにマニュアルそのもの。世の中は数字ですべて表せると思ってる。これからはレシピだよ、と田中康夫は口を酸っぱくして申し上げてるのに(笑い)、みなさん、『日経アントロポス』の企画書の書き方特集を必死になって読んでる(笑い)。

武田 結局、一億総マーケッター的になっちゃったんですよね。

※この年の12月5日に渋谷109で行われた田中康夫の出版トーク・イベントにボクは乗り込んで、質疑応答タイムで質問を投げかけている。それは「アナタはプレゼン向きの目新しい言葉として“レシピ”とか言い出しているが、それも一つの“マニュアル”に過ぎないのではないのか? しかも数字にさえなっていない“マニュアル”ではないのか?」というものだった。
 康夫はうろたえ、明確にこの問いかけには応えられなかった。そして会場から逃げ出した。いや、逃げてはいない、今なら応えられるというなら、応えてもらいたいものだ。

 

逃げ道はないよ

 

 さて、この『朝日ジャーナル』の記事は対談記事である。田中康夫本人が原稿用紙に向かって書き記した原稿ではない。そこに卑怯な人間ならではの「逃げ道」があってはならないと思い、ボクはこの11年前に掲載された記事の担当編集者を捜し出すことにした。
 朝日新聞社の担当者は『朝日ジャーナル』、『朝日グラフ』編集部を経て、現在は『論座』編集部に在籍していた。そして接触することに成功したが、特に名は伏す(名前を出すことに意味もない)。
 ボクの質問は二つだった。「対談でまったく発言もしていないことが勝手に記事になることがあるのか」という一点。そして「対談記事の校正(ゲラ)は出ていて、それを対談者がチェックする機会があったか」という一点だ。
 11年前の記事である。記憶が失われている可能性もあるし、担当編集者としては言えないこともあるかと思い、「あの時どうだったか、ということでなく、これまでに手がけられた記事の一般論での回答で結構です」と付け加えた。
 すると、担当者氏は11年前のことをしっかり記憶していて「あの時の場合で結構ですよ。一般論でもまったく同じですが、発言していない内容が記事になったということはありえません。また、必ずゲラは取っていて本人から発言内容のチェックを受けています」と回答してくれた。

 さあ、これで逃げ道はなくなった。

 

(次回は『週刊SPA!』1992年5月20日号記事を検討します)

 

 

 

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