田中康夫問題中級編

 

八郎の間軸理する!!

 

 

 

前二回で、田中康夫が1992年に記した『朝日ジャーナル』5月15日号(朝日新聞社)、『週刊SPA!』5月20日号(扶桑社)の記事を検討した。今回は当時の事情について、さらに説明を加え、また現在に至るまでの経緯を記すことにしよう。

 繰り返しておくが、康夫のひどい「オタク論」「テレビメディアに関する独特な考え」など、論評の部分は「カンの悪い批評家」の仕事としては許してあげても構わない。つまり論評は自由だが、事実誤認と名誉毀損は問題である。謝罪と訂正をしてもらわなければ困る。こっちは犯罪者にされかかってるんだ。冗談じゃない。

問題単行本が発行された……

 しかし、ボクの叫びを無視して、田中康夫は『週刊SPA!』の連載原稿をそっくりそのまま単行本に収録した。約半年後の92年11月30日に発行された『これが基本です。』(扶桑社)である。
 このへんの事情について、康夫知事は今年2003年7月18日会見で、ボクの追及に対して次のように言っている。
 “じゃあ、改めて申し上げますが、私は書籍化する際にも私の記したものはそのまま書籍化してるわけですから、私はその段階で私の表現の、その部分に関して修正の要はなしと考えたわけですし、それは今日も同様であります。”
 こんにちも同様、と言っている。
 長野県知事として田中康夫は、8月17日に放送された『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)に出演し、「信州共和国宣言」を出すことを考えていると発言した。人気取りの思いつきで言っているんだろうが、その宣言の柱は「脱一律・脱既得権・脱タテ割・脱無謬」の4つだそうだ。
 最後の「脱無謬」とは「みずからに誤謬がないのだ」と言い張るお役所的体質を改める(良い意味での朝令暮改)ことらしい。あん、「脱無謬」だと上等だ! 自らデタラメを書いて、抗議しても「修正の要はなし」で片付け、改めて謝罪と訂正を求めても、判断は「今日も同様」だと! どこが「脱無謬」なんだ! ふざけんな!

人を平気で犯罪者扱いする田中康夫

 「郵便物を盗んだ」という話について説明が必要かもしれない。
 これに関しては92年当時、警視庁玉川署の事情聴取を受け、かなり時間が経ってからは東京区検検事の事情聴取を受けたことは確かにある。その際にボクの側の証拠品も提示し(その物的証拠についてはいつか明らかにする用意はある)、ていねいに説明したところ、担当検事はボクに「アナタはハメられましたね。お気の毒です」と同情さえ示してくれている。もちろんこの件で逮捕はおろか、起訴もされていない。そして、すでに窃盗罪の公訴時効は過ぎている。無実だということだ。
 ボクは法律家ではないが、容疑をかけられた人間が「無実を証明する義務」は負わず、容疑をかけた側に「明証責任」が生じるというのは、法の大前提だろう。一橋大学法学部を卒業した人間が「法」に無知だというなら、それはそれで権力者としても大きな問題だ。
 前回の『週刊SPA!』記事を検討した際に、文量のバランスの関係で記さなかったことについて記しておく。
 「窃盗罪を自白しろ」という“アドバイス”についてだ。まったく同じ意見を『朝日ジャーナル』の記事では、田中康夫自身の意見として発言しているのは、前々回の文章での引用を読んでいただければ明らかだ。これは一体、誰の発案による“アドバイス”なのかね。康夫は2003年8月7日知事会見で、ボクの質問に対して“人の中には意見が同じくなる場合もございます”と言っているが、それは話が逆だろう。こいつは自分の意見を誰か第三者が言っていた、と客観性を匂わせ説得力を増すように演出するウソを平気で書くような似非表現者なのではないだろうか。
 ただし、『週刊SPA!』に掲載された記事について、ボクもその「親しい理解者」とやらが、仮にいるのだとしたら、誰だろうと自分自身と康夫の接点について調べてみた。当時、両者に接点があった人間は多くはない。すぐに推測することは可能だった。
 それはボクも康夫も単行本を出版している太田出版の社長の高瀬さんだった。高瀬さんは夫人が元アナウンサーとのことで、テレビ業界へのコネクションも強い人だった(当時、ビートたけしが最も信頼する出版関係者だった)。田中康夫が仕事がない時にしきりに「テレビに出させてくれ」と懇願していた人物である。
 「親しい理解者の助言」に話を戻すが、これには傍証があって、当時、中森明夫(コラムニスト)から、「高瀬さんから聞いたんだけど、君について高瀬さんが康夫と“何か”を話したらしいよ」という証言を得た。これでまず間違いないと思った。
 おそらくボクはこう推測する。康夫が自らの考えを高瀬さんに述べ、高瀬さんはあいまいにうなづいた、という程度のコトではなかったか、と(推測です)。少なくともボクは高瀬さんにアドバイスを受けてはいないし、それを一笑に付したという事実もない。この部分の事実誤認に関しても、康夫はボクが乗り込んだ7月18日会見で“あなたはアドバイスというふうに認識なさってなくても、高瀬さんがあなたに対して発せられた言葉は、高瀬さんはアドバイスであるという認識をなさってるかもしれません”などと言い逃れている。だが、そんな言葉自体発してないんだよ、高瀬さんは。
 何にせよ、『朝日ジャーナル』『週刊SPA!』の記事にせよ、窃盗罪を前提にした記事には間違いない。明証責任の所在については触れた。田中康夫よ、てめえの文章に誤謬がないというなら、ボクが犯罪を犯したという証明をしてみろよ!

問題本出版イベントに乗り込んだ!

 “修正のようはなし”と判断したということは、田中康夫は自らの表現を“精査した”ということになる。結局、『これが基本です。』という単行本は92年11月30日に発行された。“精査した”上で人を犯罪者扱いして平気な顔をしているのだから、より大問題だ。じゃあ、どう“精査した”のか教えてくれ。“精査”ってのは、てめえにとって何なんだ。今後、県知事として県政にかかわる諸課題に関しても“精査”って言葉が出てきたら、問題にされるべきだよなー。

 この康夫の問題本が出たのとほぼ同じタイミングで同じ出版社(扶桑社)から単行本を出した香山リカとの共同・出版イベントに、ボクは乗り込むことにした。
 これは92年12月5日に渋谷109で催された「歪んだ時代の正しい生き方」というイベントである。

 ちょうど、この会場には後にボクとバトルを繰り返すことになる、漫画家・小林よしのりが来ていて、初期の『ゴーマニズム宣言』でボクの乱入について描いている(何かの縁かな)。

 ボクは入場者からの質問コーナーでは、真っ先に手を挙げ、質問責めにした。
 たとえば、作家存在に関わる質問では「『なんとなくクリスタル』以外の小説、まったく知らないんですが、それ以外の代表作は何ですか」とかね。またボクはこの後、クリスタルな街(笑い)、渋谷・青山・原宿・六本木などで、田中康夫が「恋愛」を指南している対象であるらしい女子大生・OLを対象にアンケート調査も実施。その質問項目は「アナタの知っている『なんとなくクリスタル』以外の田中康夫の小説は何ですか?」というもの。回答率で当時高かったのは確か『トパーズ』『ノルウェイの森』だったかなー(当時→爆笑)。

 もちろん、渋谷109のイベントでは、その時の演題であった「歪んだ時代の正しい生き方」というテーマについても、田中が主張していた“マニュアルからレシピの時代へ”という持論に対して正攻法で質問している。これについては「『朝日ジャーナル』記事を検討する」で触れたとおりだ。

 また、この時、康夫は「活字はどこからでも読むことができるけど、映像は最初から見なければならないからメディアとして劣っている」と発言したから、すぐにボクは「テープはともかくディスク・アクセスについてアナタは御存知ないんですか」と突っ込んでもいる。康夫はまったく答えられなかった。

 そんな田中康夫が新潮社のIとかいうイニシャルの「ホームページ・ビルダーの王様」(康夫の表現)にパソコンを教えてもらったせいか、今や演説で「これからの時代のOS」だの「リナックス型社会」だのと、得意気にほざいているのは笑わせる。だいたい「ホームページ・ビルダーの王様」って何なんだよ? 「王様」なんて聞いたことねえぞ(ああ“裸の王様”か)。「OS〜?」「リナックス型社会」って何なんだよ(笑い)。適当に造語作ってんじゃねえよ。

 イベントではあまりの質問責めに田中康夫は最後には会場の裏口から逃げ出した。それで、ボクはイベントが終了した後に会場でビラをばらまいて帰ってきた(紙爆弾さッ)。
 しかし、康夫をそのまま逃がして放置しておくほど、ボクは甘くない。

田中康夫邸を襲撃した!

 94年になってからだが、ボクは責任追及のため、田中康夫の自宅をいくどとなく「襲撃」した。この際に、「ボクに対してアドバイスをした」としている人物が太田出版の社長の高瀬さんであることを暗に認めさせた。しかし、度重なる訪問に、康夫はついに警察を呼んでくれたりもした(事情聴取の時間差はあったが、いっしょに警視庁玉川署に出頭した仲だ→笑い)。“表現者”が警察に頼るというのはどうなのであろうか。

 この際のボクの襲撃に関しては、康夫は自ら『噂の真相』の日記連載で触れている。人によっては、この箇所が田中康夫という「作家」原稿の最も面白かった文章だ、という評価をする人もいる(笑い)。中森明夫のことなんだけどね(フフッ)。

 ただし、このかんの康夫の日記は慎重に書かれていた形跡があった。2年前に懲りたのかもしれない。説明する。襲撃に関して、ボクが間違いなくやった行為に関しては「主語」としてボクの名前が確かに記されている。しかし、ボクが行ってもいない(心当たりのない)“行為”に関しては「主語」を記さずに文章の責任を逃れているのだ。ただし、一般的な読者が読めば、康夫が記した“被害”はすべてボクによってなされた、と読みうる文章になっているのである。一種の“誘導”だろう。

 誘導された田中康夫支持者はさぞや多かったことだろうと思う。
 ある企業の神戸事務所のホームページに「神戸雑記」という日記が掲載されていて、そこには多くの事実誤認を含んだ「宅八郎による田中康夫襲撃」の様子が記されていた。問題のある記事だった。どうやら複数の検索エンジンで「宅八郎」というキーワードを打ち込むと、このホームページが上位で引っ掛かるようだった。

 一年間さらされ続けた結果、アイドル掲示板にリンクが張られ、ようやくこのページを発見したボクは、具体的な箇所を提示して一々、事実誤認を指摘する内容の「謝罪と訂正」を求めるメールを送った。すると、あわてて「記述はすべて田中康夫の日記からの引き書きです」という言い訳と共に謝罪のメールが送られてきて、そのページは即刻削除された(削除は求めていないのにね)。
  しかし、一年間もひどい記事がさらされ続けた責任を、田中康夫は決して取ってはくれないのである。

問題本が出版されてから現在までの時間軸

 さて、この94年襲撃以降のことだが、その後はずっと別の処刑活動に従事していたために、康夫のことは放っておいた。それは本筋である『週刊ポスト』編集部のデスク処刑だったのだが、その過程でボクは警視庁によって別件不当逮捕までされていたのだ(後にデスクは死亡したがね)。
 そして、ボクの脳裏には深い憎悪が刻まれたまま(でも、すっかり忘れてたんだけどね)、発端から数えれば11年という月日が流れた。
 2003年7月18日。ボクは長野県庁を訪れた。県知事という権力の座についた田中康夫に「過去からの復讐」を思い知らせてやるために。
 康夫知事は記者クラブを廃し、誰でも表現者であれば利用できる「表現センター」を設置している。知事と質疑応答のできるのは知事会見の時だ。
 そこで、ボクはこの日の知事会見に乗り込んだのだ。
 「ボクが誰だかわかるな、八郎だッ!」
 これ以降の流れは、みなさん御存知だと思う。時間軸はここでつながったワケだ……。

 最初は、どこのどなたでございましょう、まず、おっしゃってください、などとトボけていた田中康夫が、急にボクを本名で連呼し出したことについては以前触れた。
 そして県知事として行政の「官僚主義を廃する」だとか言ってる、こいつは、まさにお役所的対応としか言えない対応を見せた。ボクから質問があるのなら、こう対応すると言うのだ。
 “経営戦略局にお問い合わせいただければと思います”“私どもの3階に経営戦略局というものがございます”“ただ、多数の郵便がまいりますので、私はいただいたものを拝見はいたしております”“「『県民のこえ』ホットライン」というシステムがございます”“その形でお寄せいただければ、ほぼ1週間をめどにお返事をするというシステムにはなっております”
 康夫のあまりの公家言葉に頭に来たボクは「ございますの、とか言ってんじゃねえよ、てめえ、この野郎!」と言葉を荒げた。ふだんはとっても温厚なボクも、ヤクザやチンピラ、康夫のような権力者を相手にすれば、自然と口調も荒っぽい言葉にならざるを得ない。しかし、康夫は“私もそのようなしゃべり方が好きでございます”と応じた。

 なのに、ボクが二回目に乗り込んだ2003年8月7日対決では、「なぶり殺しにされる覚悟で待ってろ」と、やはり言葉を荒げたボクに対して、田中康夫は警察権力の介入さえ、ほのめかしたのだ。何だ、その一貫性の無さは。
 「ポリ公来てんじゃねーだろーな」。ボクは叫んでいた。
 康夫はやや「しまった」という表情を浮かべたように見えた。こいつの警察への考え方はどうなってるのか、興味深い。人を犯人扱いして反省の色もない康夫だ。こいつが、オウム真理教が起こした松本サリン事件で当初、容疑者扱いされた河野義行さんを長野県公安委員に「指名」したのも、県知事としての市民派気取り「てめえの人気取り」に過ぎないと思う。

 わざわざ、すべての資料をコピーして康夫の言うとおりに郵送した。しかし、1週間経っても2週間経っても、何の返事も来なかった。先にお役所的対応と記したが、長野県知事の対応は「お役所以下」だと訂正しておく。「しなやか」とかが売りなんだろ。ボクに対する対応はまったく、しなやかじゃないじゃないか!

 さんざん「長野ライブ告知」をボクがしていたからか、その後の知事会見でも、康夫は姑息な手段を取ってきた。1時間の予定であった質疑応答の時間のうち、30分以上もダラダラ、ダラダラ一人で話を続けたのだ。まるで質問時間をできるだけ少なく削ろうとするかのような手だった。
 そして質疑応答に入り、ど真ん中の一番前に座ったボクは真っ先に手を挙げたが、ボクからあわてて目をそらし、指名しない。一人の質疑応答が終わり、ボクはすぐにまた手を挙げたが、やはりボクを指名しないで後ろに座っていた人を指名した(こっちは先に手を挙げてんだよ)。
 そうこうするうちに残り時間はみるみる少なくなっていった。このまま、逃げ切って終わろうとするのかと思った。過去に康夫はそうして、「時間が来たので後は電話でもしてください」と逃げたことがあったと、地元記者から聞いた。また、彼いわく、わざわざ会見を午前にしたのも「宅八郎対策では」と、恣意的なものを感じたと言う。
 そして残り時間が10分くらいになった時に、ようやく他の質問者が誰もいなくなり、仕方がないという顔でボクが指名された。
 ボクとの質疑応答は前回の「続き」であり、資料を受け取ったことを認めてもいる。さらに、田中康夫という「作家」の「表現」によってボクは被害を被ったと訴えているのである。優先順序があるだろう! 逃げてんじゃねえよ。てめえの面白くもない話を延々したり、都合の良い質問者から指名したりってのはどういう了見だ!

 ボクの細かな追及に対して康夫知事は8月7日対決では“これだけ文章の一字一句に関して大切になさる宅八郎さんであるならば……”などとイヤミも突き返してきている。
  しかし、アンタねえ、99年3月13日のてめえの日記では“ディテールにこそ真実は宿る、とは捉えられぬのが団塊世代の哀しさか”と自分よりも上の世代のズボラさを嘆いてみせているんだよ。かつて、こいつはダイエーとモメた時に、ダイエー側が送ってきた内容証明に「『週刊SPA!』を『週刊スパ』と表記していたことを非難していた男」なんだよ。
  『朝日ジャーナル』の記事を引用した時に、関係ない話だから引用しなかった箇所だけど、康夫は“佐高信と僕くらいのものでしょ、ネチネチやるのは(笑い)。”と、日本で細かくものを追及する人間は自分ともう一人くらいしかいない、なんて言っていた。
  ノンノンノン、誰かを忘れちゃいないかなー(笑い)。特にしつこさにおいてなッ!
  自分は揚げ足取りみたいなことばっかりやっているクセに、てめえ自身のことは細かく突っ込まれたくないなんて話はないよな!


迷惑人間・田中康夫


 こんな迷惑なヤツがいるか! ボクは3戦目になった9月9日対決では、「迷惑なんだよ」「お前県知事に向いてねえなあ」と責めたが、田中康夫は決してみずからの誤りをただそうとも、いや誤りを認めようともしなかった。
 しまいにはボクの追及に対して、“時効”だとか“クーリング・オフ”だとか言い出した。おまえは自分が表現者として何を発言してきたのかの自覚さえないのか。論理の一貫性はないのか。
 「朝日ジャーナル1992年5月15日号を検討する」で、康夫が“過去に対するおとしまえ”について言及していることは述べた。さらに、97年9月1日の日記で田中康夫は“誰もが常に「歴史」と向き合わねばならぬ。いわんや「メディア時評」を物する向きに於いてをや”と述べていることも記した。
 なのに「時効」だと! 

 悪いがボクには時効はない!
 

 

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