サブカルダメA級戦犯、中森明夫の生き様!!

 

マイウェイ出版刊『日本列島ウラ情報Vol.4』掲載原稿『日本をダメにしたA級戦犯はコイツだ!』を改稿

 

『サイゾー』でエラソーに『噂真』廃刊について黒幕節を語っていたので、思い出してアップすることにしました。元が雑誌用の原稿だったために、処刑リスト0001と重複部分があることをお許しください。

 

黒幕との出会い

 

 日本をサブカル・ダメ列島にしたA級戦犯といえば、中森明夫だろう。
 『噂の真相』が消滅するまで相も変わらず自らを「黒幕」と名乗っていた。マス・メディアの世界では、本人が強調するほどの影響力(「月刊ナカモリ効果」だとさ)が実際どの程度あるのか知らないが、一部のダメ(?)編集者には支持されているんだろう(笑い)。ボクもコメントした『サイゾー』2004年4月号「『噂真』廃刊特集」でも、同誌の内情らしきコメントをしていたからね。

 ボクが初めて中森と会ったのはもう21年前の1983年秋の事だ。現在、コンピュータ系出版社アスキーに在籍する遠藤諭(エンドウユイチ)の紹介だった。遠藤は「東京おとなクラブ」というミニコミ誌の編集長だった(中森は発行人)。
 経緯を説明しよう。その年の夏、ボクは大阪で開かれた第22回日本SF大会「DAICON4」(岡田斗司夫らが企画)に参加して、そのまま大阪にある出版社チャンネルゼロ(関西大学漫画同好会OBらによる会社で、漫画家いしいひさいちらが主宰)の事務所に一ヶ月ほど居候していた。これはボクが高校生の時に地元の浜松で知り合った方が関西大学SF研究会および漫画同好会のOBだった関係による。
  そこで、大阪の江坂にあったチャンネルゼロの事務所を訪ねてきた遠藤とボクは知り合ったのだ。東京での再会を約束した。

  神田にあった「東京おとなクラブ」の事務所を訪ねたボクが、遠藤から中森を紹介されたのは、この83年の9月頃だったはずだ。当時はボクも黒幕も大学生だった。年齢的にはボクより3歳年上で、一時期は親しくさせてもらっていた。元々よほど気が合っていたと思われるかもしれないが、知り会ってすぐに仲良くなったわけではなく、80年代後半頃が一番親しかった。彼が書いた小説をデータマンとして手伝わせてもらった事も大きかった(それがボクの評価につながったのだと思うが、その本については後述する)。
 一番親しかったのは、ボクの自宅から歩いて2分ほどの所に彼がわざわざ引っ越してきた頃だろう。ホモセクシャルな関係では決してなかったが、ボクの家の近くがいいと中森が言い出したために、ボクが不動産屋で部屋を探して、引越まで手伝ったこともあったのだ。

 その、引っ越したばかりの新居に、酒屋を営む彼の母親が三重県の漁師町から上京してきた時、お土産として持ってきてくれた海の幸をごちそうになったのを思い出す。彼の父親はすでに他界していたが、親にまで引き合わされたことで、どうか同性愛を疑わないで欲しい(笑い)。ごちそうしてくれた、お母さん、ごめんね。でもアナタの息子が悪いんダ……。

 当時のボクは大学新卒で入った会社を首になって、売れない原稿を書いたり、それだけでは食べていけず他のアルバイトをしたり、とフラフラしていたダメな時期だった。


黒幕の作られた経歴

 

 中森明夫、1960年生まれ、明大中野高校中退、が公式プロフィールである。しかし、ボクは彼が本当は1959年生まれであり、某三流大学中退であることを知っている。アイドルじゃあるまいし、年齢詐称や経歴詐称して何なんだよ。
 と突っ込んだところで、身近にいたボクはじつはその理由も知っているから、書いておくことにしよう。

 中森明夫は1985年、『朝日ジャーナル』の企画「新人類の旗手たち」に登場したことから、マス・メディアに頭角を現した。
 同誌のこの企画は名物企画「若者たちの神々」(浅田彰、田中康夫などが登場)の後続企画だった。
 そこで中森は新世代を気取りたくて、1960年代生まれにこだわったのだろうし、どうせ誰も認めてくれないような三流大学出の経歴よりは、当時高卒を売りにしていた「とんねるず」より最低だというつもりで「高校中退」を詐称したのだった。

 当初の中森は野々村文宏、田口賢司「新人類三人組」として、いろんなメディアで活動していた。野々村も田口も今では消えてしまったようにも見えるが(野々村は現・和光大学講師、田口は知らない)、じつはボクは野々村と最も親しかった。中森ではない。野々村だった。
 現在、任天堂の大ヒットゲーム「ポケットモンスター」で名をはせる株式会社ゲームフリークの社長・田尻智を見いだした編集者が、野々村だった。当初、野々村はアスキーが発行する雑誌『LOG IN』の契約編集者をしていたのだ。ボクが野々村とかなり親しかったことから、東京おとなクラブのエンドウユイチ(遠藤諭)に紹介を頼まれたこともあった。非出版系のサラリーマンだった遠藤のアスキーへの再就職のためだった。

 ただ実際、野々村は頭の良さもさながら、難しい性格の人で次第にボクも距離を置かざるを得なくなってしまったのだが、中森が野々村を「切り捨てた」時の冷酷さをボクはよく覚えている。
 いや、中森自身がその「酷さ」をどこかで自覚していたかのように、その後もしきりに「野々村は問題児だったから、あいつが悪かったんだ!」と繰り返し繰り返しボクに話してきたのを覚えている。まるで自分は何も悪くないと言わんばかりの態度だった。おそらく、そうとでも言わなければいられないような気分だったのだろう。自責の念にかられるだけなら良いのだが、ちょっとみっともないなと思いながらも、年上である彼にボクは話を合わせざるを得なかったのを記憶している。

 まあ「メディアからこのまま野々村、田口といっしょに消えたくない」という自己保身の能力だけは異常に高い人だったとは言える(ボクはその冷酷さは見習いたくとも見習えなかった)。



中森明夫と対談する人へ

 

 中森明夫を有名にしたのは彼が「おたく」の名付け親になったことだろう。このキーワードは『漫画ブリッコ』83年6月号で初登場した。
 ただし、「おたく」という言葉が世間一般に知られるようになったのは89年の連続幼女誘拐殺害事件のM被告の事件で日本中が大騒ぎになったことによる。
 元々は差別用語としての性格が強かった「おたく」の命名者としての彼のネーミング・センスは秀逸だったとは思う。そして、M被告の事件が起こった直後にまとめられた大塚英志(評論家)との対談本『Mの世代』(太田出版)が高く評価されていることにも、ボクとしては特に異論はない。
 ただし、これにも裏話があって、当初週刊誌に掲載された段階での「中森・大塚対談」の担当編集者はこうこぼしていた。
 「対談はいいんだけど、その後の著者校正で発言をほぼ全部書き換えてきたのには、まいった」と。さらに対談を発展させた単行本の版元・太田出版の担当編集者も「もはや対談と言えるのかどうか…」と同様のためいきをもらしていた。
 対談はまあいい。しかし、発言を書き換えるという「後出しジャンケン」はどうなのか(相手が言ったクールな発言を先に自分が言ったかのように書き換えたとも聞いた)。
 まあ、今後、中森明夫と対談する予定のある人に言っておこう。「後で好き勝手に書き換えられる覚悟を持ったほうがいいよ」と。


ボクと黒幕自身のダメ時代

 

 彼にも冬の時代はあった。「新人類ブーム」が去った頃のことだ。ここで、黒幕はみずからを「作家」として売り出そうと試みた。88年初夏にマガジンハウスの編集者や、人気イラストレーター仲世朝子さん、データマンだったボクの前で、彼がした「作家宣言」は息巻くしろものだった。
 何せ「最初の作品はマガジンハウスから出してやるが、後は文芸出版社である新潮社に活動の場を移す」というのだから(笑い)。
 しかし、処女長編小説『オシャレ泥棒』(88年7月1日マガジンハウス発行)は仲世朝子さんの名イラストが付いたものの、彼の思惑通りには売れなかった。
 まさに黒幕「冬の時代」がやって来た。そこで、彼は驚くべき行動に出る。たんなる失業者同然のダメ・ライターをやっていたボクに頼み事をしてきたのだ。

 ここで、ボクの「不思議な過去」についても触れておかなければならない。ちょっとだけ恥ずかしいんだけど。
 あくまでも「宅八郎」のデビューは90年春、『週刊SPA!』誌上だ。
 しかし、無署名ライターとしてのボクは80年代後半、女子高生向き雑誌『プチセブン』で仕事をさせてもらっていたのだ。かなりの「無理」だった(ダイエット記事とか恋愛相談の記事とか、何でも体当たりでやろうとしたが、出来なかったよ)。あまりの「無理」がたたって、仕事が来なくなったけどな。

 ただ「収穫」のようなものがあった。コメント取りのお使い仕事のような取材で会ったイラストレーターの上田三根子さんと親しくなったのだ。『オリーブ』『MCシスター』などでも活躍する上田さんは、オシャレ度の高い少女向けイラストの大家だ。その画風はもはや「クラシック」とも「スタンダード」とも言える。
 ところが、ここでウラミのない人の話をしてしまうが(ごめんなさい)、上田さんはあの少女イラストを警察無線を聴きながら描いているような(笑い)、犯罪小説マニアなのである。当時のボクは無名のライターではあったが、自然と「犯罪好きの縁」で、この大家と話が合い、意気投合してしまったのである。

 そこで、中森明夫の登場だ。
 ダメ・ライターのボクにも利用価値があった。それは上田三根子さんへの「コネ」だった。当時、中森明夫は仕事がほとんどなかった。生活費として三重県の片田舎にある実家に50万円都合してもらったという話さえ聞かされた。
 やむなく、ボクに「上田さんを紹介して欲しい」と頼みこんできたのである。上田さんのイラストさえ付けば、自分の小説も売れるに違いない、という目論見のようだった。
 しかし、同じ少女イラストというフィールドで活躍する仲世朝子さんから上田三根子さんへ「乗り換えよう」とした彼の冷徹な思考も興味深いものがある。
 「少し困ったな」と思ったが、人から何かを頼まれると弱いボクは黒幕氏と共に上田さんの家へ「営業に行く」ことになった。中森明夫は上田さんの前でも業界系黒幕節を振るったが、大家は大きな関心は示さなかった。しまいには「イラストを描いてくれなくていいから、仕事先を紹介してください」とまで、すがりついたが、話はそこで終わった……。あわれだった。


ボクの黒幕氏との決別

 

 さて、「おたく」というキーワードの遺伝子を受け継いだボク自身の話になるが、90年にボクは「宅八郎」と言うペンネームで、『週刊SPA!』を舞台にライターとしてリ・デビューする事になった。担当編集者は当時デスクで、後に編集長になるツルシ一彦氏

 ボクの成功を見てから、黒幕氏も『週刊SPA!』で篠山紀信の巻頭グラビア「ニュースな女たち」の連載を開始した(黒幕氏のやり方は誰かでまず試してみることだ。後の『噂の真相』連載もボクがうまくやってから彼が参入してきたのは偶然ではないようにも思う)。
 さて、『SPA!』で彼はあきれた発言をした。「作家は偉くない。俺はライターだ!」と。数年前の事情を知るボクは「人間の自己正当化の極限」を見る思いだった。そして、山崎浩一との共同作業による特集「サブカルチャー最終戦争」(『週刊SPA!』91年12月25日号)で、「いとうせいこうの時代は終わった」と攻撃した(黒幕は自分一人でなく誰かを巻き込む)。しかし、いとうせいこうが今でも大活躍しているのを、中森は黒幕としてどう見ているのだろうか。

 その頃の中森明夫のエピソードとして思い出されるのは、早稲田大学近くでやっていたらしい浅羽通明・大月隆寛の「勉強会」に人を行かせて、浅羽・大月の発言をカセットテープにせっせと録音して集めていたことだろうか(笑い)。興味があれば自分で行けばいいじゃないか。会って話を聞けばいいじゃないか。あくまで自分が行くのではなく、人を行かせていたあたり、さすが黒幕と言える。
 さて、宅八郎デビューのほぼ1年後くらいから、彼とは距離ができていった。ボクがテレビメディアを中心に大暴れし始めた頃のことだ。その頃彼から言われた言葉を思い出す。「君は僕の手の平の上に乗る人間ではなくなったから……」。その時は少しさびしくも感じたが、冷静に考えるとスゴイ言葉だ。さすが黒幕だ。回りの人間はすべて手の平の上に乗せているつもりらしい。

 黒幕氏は話し上手な人である。対談もそつなくこなす。しかし、それでいてテレビ出演に関しては異常に神経質になっていた人だった。それなのに、出版関係者には「テレビメディア」に出るという行為そのものを「是」としないから、出ないのだと言い張っていた。
 しかし、ボクは彼がテレビに出たがらなかった理由を知っている。じつは「現場処理能力」=「反射神経」がそんなに高くはないことを。後出しジャンケンが出来ない場所がテレビというメディアの怖いところなのだ。ある意味でそうした反射神経は「近距離接近パワー型スタンド」だと言える。
  だが、何も考えず、ボクはテレビメディアを騒がせていった。それを見て、彼は何かを感じ取ったように思っている。きっと黒幕は自分の手の平に乗る人間とだけ親しくしたいのだろう。

 しかし、その後も「自分は宅八郎の後見人」といった顔をされ続けられたのには苦笑するしかなかった(実際に『噂真』の記事にそう言う表現の記述もあった)。ただ、さすがにボクの怒りを恐れてか「自分の弟子」と言う表現だけは絶対にしなかった。自分が『月刊宝島』の常連投稿者だった石丸元章を見いだしたからか、石丸に対してはさんざん「弟子」「弟子」と記しているのにな。代わりにボクに対して使った表現は「(自分の)周辺から出てきた宅八郎」(爆笑)

 そして、95年のことだ。『週刊SPA!』を舞台にボクと小林よしのりが対立を深める事態が起きた。小林は『SPA!』を去ったが、単行本の版権は残し、その利権による小林と切通理作の悪辣なワナにはまってボク自身の連載も圧力で打ち切られた。また、恩人でもある編集長のツルシ一彦が会社側から編集長を解任される大騒動になった(詳細は『教科書が教えない小林よしのり』[ロフトブックス刊]に詳しい)。
 そこで、編集長への恩を忘れない、心ある連載執筆陣や編集者たちは何らかの方法を扶桑社上層部に取れないものか、画策した。それが誰であるかは彼らへの影響を考えてここでは記さないが。中森明夫にボクたちは何十回も電話をかけた。留守番電話にもメッセージを何度も残した。しかし、協力を仰ぐために連絡を入れ続けた黒幕はこれを完全無視、何と素知らぬ顔で会社側が用意した次の編集長に顔をつないでいた……。
 完全な彼とボクとの断絶だった。


ダメ文化人を製造し続けた黒幕

 

 彼自身のダメさをつづってきたが、依頼されたテーマに話を戻さなきゃ。戦犯という意味での最大の罪は『週刊SPA!』で連載していた「中森文化新聞」だろう。
 この場で彼はまさに黒幕気取りで多くの実力不足なサブカル文化人を売って見せた。あくまで手の平に乗る人間をね。あえて名は出さないが、このコーナーで一時もてはやされた人物から泣き言を聞かされたことがある。「中森さんはハシゴをかけただけで、何のフォローもなく、去っていきました。今では本当に恨んでいます。心から」と。

 オイ、中森、あくまでも「人を売りたかった」んじゃなくて「人を売る自分」を売りたかっただけだと白状してみたらどうだ。
 黒幕ってのは陰で動いている人間のことだろ。おまえみたいな“開きっぱなしの”黒幕いやしねえよ。「白幕」とでも肩書き変えろよ(あぁん、ボクも意味わかんねえよ)。もっとも今では「万華鏡占い師」なる肩書きも名乗ってるようだが(笑い)。まあ、そうまでして自分だけが生き残りたいんだろうね。

 ボクは黒幕氏の生き様を見て、「人の恩」とか「仲間」とか「自己正当化」とか、思春期の若者が考えるような青いコトを考えざるを得なくなってしまうのである。そんなボクもダメをこじらせているのかもしれない。

 

(終わり)

 

 

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