宅 八郎 presents

 

サ イ コ ホ ラ ー 小 説

『 K の 器 』 

 

 

 

第 一 回

 

 

 そのビルを見上げる。

 ビルの屋上から誰かが飛び降りる瞬間を「ぼく」は見た気がした。

 いや、人が飛び降りる瞬間を見ているのが「ぼく」だったのか、「ぼく」が飛び降りた瞬間に地上に人の姿を見たのか、わからない。

 飛び降りる時に感じたヒヤッとした感覚をも「ぼく」は味わっていたからだ。

 もしかすると、「ぼく」がビルから飛び降りるのを見ている「ぼく」を、さらに「ぼく」が見ていたような気さえする。

 それぞれすべての記憶が「ぼく」にはあるのだ。

 

 

 

chase1 : 燃 え つ き た 地 図  

 

 思いしらせてやる。

 ここまで苦労して、Kを追跡してきたのだ。決して逃がしはしない。尾行に成功しさえすれば、必ず活路は見いだせるはずだ。

Kが神田神保町の出版社SE社から出てくるのを、夕方から五時間ほど張り込んで待ち伏せた。それも「ぼく」にとっては苦ではなかった。

 SE社は隣接する出版社SG社とともに、業界では「千代田グループ」と呼ばれている。これは両社が千代田区にあるからだ。ともに神田神保町交差点からほど近く、地下鉄「神保町」駅から徒歩数分の距離である。元々遡れば、SE社はSG社の子会社としてスタートしたが、現在は表立っての関係は薄い。

 対して、文京区にあるKD社とKB社も同様の関係にあって、「文京グループ」と呼ばれている。そして出版業界では、最も巨大なこの二大コンツェルンは「千代田VS文京」としてライバル視されているのだった。

 SE社が発行する『週刊P』誌の有名編集者、それがKだ。

 その日、社から出てきたKがタクシーに乗ったのを確認すると、「ぼく」もタクシーを拾って追跡を開始した。

「前のタクシーを尾行してください」

 初老の運転手は一瞬、不審な顔を浮かべる。それを打ち消すように、「ぼく」はもう一度、「運転手さん、前を走っている、あのタクシーを追ってください」と繰り返し、告げた。運転手は無言で応え、車を発進させる。こうして、Kの乗ったタクシーの後を「ぼく」の乗った車が追っていった。

 いつものように、そう、いつものように「ぼく」はバッグから小型のビデオカメラを取り出し、運転手に気づかれないように撮影を開始する。ビデオカメラの前面に付けられた、録画中を示す赤色ランプは点灯しないようにセットしている。撮影する相手を含めて誰にも気づかれないためだった。これは隠し撮りの際の基本だ。

 今、目の前をKのタクシーが走っている。「ぼく」の眼は前の車から離れなかった。

 どこまでも追ってやる。地の果てまでも、だ。

 Kの車が右に曲がれば、こちらも右折し、スピードを上げればこちらも加速した。執拗にKのタクシーを追っていく。もちろん尾行を気づかれている様子はなかった。

 「ぼく」は時計を見る。もう午前0時を回るところだった。おそらく、このままKは帰宅するだろう。そう、Kの自宅を突き止めるのが「ぼく」の目的だった。すでにKを尾行撮影したビデオテープはかなりの数になっているが、どれも最後までは撮り切れていない。今日こそは……という思いが強い。

 うまくいくだろうか。「ぼく」は気をもみながら、目の前の車をにらみつけていた。

 交通量は決して少なくはない。深夜のためか、道路を走る車のほとんどがタクシーだった。どれがKを乗せたタクシーなのか見失いそうで怖い。

 後でビデオに撮影した映像を確認すればわかるが、念のためにKのタクシー会社の車両番号とナンバープレートはしっかり暗記している。大丈夫さ……。

 しかし、 交差点にさしかかる度に「ぼく」の神経は鋭敏にささくれ立った。赤信号で足止めをくらってKに先に行かれたら、見失う可能性がある。

 「頼みますよ、運転手さん」

 タクシーの運転手に注意をうながす。しかし、この初老の男は何も答えずにハンドルを握っている。確かに「まかせてください」などと軽口をたたいて失敗した時に責任を問われたらたまらないだろう。しかし、これでいい。運転手に何らかのプレッシャーさえかけられれば、成功率も少しは高まるだろう。

こうして道路上を、明らかな意思を持った車が、別の一台の車を追っているのだ。邪悪な意思、それは完全な殺意だった。

 車はピタリと後をついていく。Kに気づかれはしないだろうか。さっきから「ぼく」のイヤな予感はピリピリと増大している。

 そこへ別のタクシーが右側の追越し車線から、かなり強引な車線変更で、「ぼく」の乗った車の前に進入してきた。

 ばかやろう! 心の中で叫ぶ。

 確かにウインカーを出しながら割り込まれたら道をあけるより仕方がない。仕方なくKの車を一台はさんで追っていく。一挙に増大した不安感に震える。

 もちろん、尾行はターゲットの真後ろにピタリとついていけばいいというものではない。相手に気づかれないためには、間に第三者をはさんで行ったほうがいい場合はある。その判断はカンとしか言いようがないだろう。ただし、第三者をはさんだ尾行には獲物を追う獣のような俊敏さを要する。状況判断によって、追い抜きをかけて真後ろにつけねばならないからだ。

 しかし、こちらの運転手には追い抜きをかける余裕はなかった。夜とはいえ、かなりの交通量があったからだ。また、そこまで真剣になる理由を初老の運転手は持ち合わせていない。どうしようもなかった。

 ところが「ぼく」のイヤな予感は的中した。すぐ前のタクシーがハザード・ランプを出し、そいつは減速しだしたのだ。こっちも仕方なくスピードを落とす。その間に、Kが乗った車はみるみる先へ走っていく。

 まずいッ!

 目の前のタクシーが客を降ろすために、左に停車した。追い抜こうとするが、追い越し車線を切れ目なく自動車が通過していくために、うまくタイミングがつかめない。

 「運転手さんッ!」

 思わず、「ぼく」は声をかけてしまうが、初老の運転手は意に解さない素振りでいる。聞こえないような顔で無言を守っている。

 出足は遅れた。その間にKの乗ったタクシーがずいぶん先を走っていくのが見えた。まだ、間に合う。まだ間に合うはずだ。そう思いたかった。五、六台前をKの車が走っている。しかし、運が悪かった。少し先の交差点の信号機が、Kの車が通過した瞬間、黄色に変わった。

 アーッ。心の中で落胆のうめきを上げる。

 「ぼく」の乗ったタクシーは赤信号で停止した。追跡線は切断された。もう、ダメかもしれない。信号が青になり、車は発進する。そこで初めて運転手が重い口をきいた。

 「お客さん、どうします。前の車、行っちゃったみたいだけど……」

 すぐに返事を返せなかった。この初老の男を責めても仕方がない。運転手が悪いわけじゃない。

 「とにかく、運転手さん、できるだけ急いで」

 そう言う以外になかった。何とか追いつけないか。何とか……。しかし、Kの姿は見当たらない。Kはもうどこにもいない……。

 その日の希望とともに、「ぼく」は車を捨てた。今夜もまた、失敗だった。手元には未完のビデオテープが残されただけだ。次のチャンスを狙うしかない。

 

 明くる日、「ぼく」は104で電話番号を調べて、Kの乗ったタクシー会社の営業所に電話をかけた。営業所には乗車記録が残っているはずだからだ。

 「もしもし、昨夜なんですが、そちらのタクシーに蒸発した私の兄が乗るのを見かけたんです。それで追いかけようと思った時には遅くて……。乗ったのは神保町です。ナンバープレートは練馬55、×8‐×6……」

 せいぜい悲しそうな声で演技して「ぼく」はタクシー会社の職員から、Kをどこで降ろしたか聞き出す。

 「はい、はい。そうですか。大田区のY谷ですね。はあ、わかりました。どうも」

 フフフッ。それまでは悲しそうな演技をしていたが、電話を切って「ぼく」は薄笑いを浮かべた。大田区か。大体の場所がわかれば、次の尾行が成功する可能性は高まるだろう。

 とにかく、「ぼく」はKにつながる資料――それは地図というべきものだろうか――はほとんど調べてみた。あとに残されているのは尾行だけだ。

 「ぼく」はあきらめない。何度でも挑戦し、目的は達成してみせる。

 今に見ていろK、必ず追いつめてやる。

   *

 今のところ、「ぼく」がKに狙いを定めたことは誰も知らない。そのことを誰かに話そうと思ったことは今までにはない。

 他人に話すとしたら、「ぼく」がなぜKに目を付けたのかは説明できるだろう。しかし、なぜここまで執拗にKを狙うのか、その理由を第三者に合理的に説明できる自信はない。仮に、仮の話だが、誰かに語るとしたら、「Kとは2000年前からの因縁がある」とか「前世の因果なんだ」とでも言っておくことになるのだろうか。フン、下らない冗談だ。

 そう、なぜ「ぼく」がKを追うことになったのか、今となっては自分でも思い出すことさえもできない。いや、今さら理由を考えることに「ぼく」自身がさほどの意味を感じてはいないのだ。理由なんてもうどうだっていい――その意味では、いつの間にか「手段」が「目的」にすれ違ってしまっているような自覚はややある――。

「ぼく」が「地図」――それはKにつながる資料というべきものだろうが――を片手に、どのようにKを追ってきたか。K追跡は数カ月前に遡る。

 あれはまだ肌寒い日のことだった―――。

 

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