宅 八郎 presents

 

サ イ コ ホ ラ ー 小 説

『 K の 器 』 

 

 

 

第 十 回  

 

 

chase20 : K と そ の 時 代

 

 

 

 

 どこかの高いビルから突き落とされていた。

 恐ろしい速度で「ぼく」の体は地面に向かって真っ逆さまに落下している。

 死の瞬間に臨んだ人間が見るというパノラマ視現象が襲ってくるような気がした。過去から現在まで一生の記憶が、一瞬にして走馬燈のように駆けめぐるという、あれだ。

 そろそろ地面に激突して死ぬなと思い、眼をつむったが、パノラマ視現象も起きず、激突の瞬間もなかなか来ない。眼を開けると、なぜか視界は靄がかかったようになっている。靄は色で言えば赤に近い紫色だった。もう天国なのか。

 目の前に女がいた。

 女は黒と白のブチ模様になった猫を抱いている。可愛らしい猫だった。そして、霞の中の女は微笑むようにして「ぼく」にいらっしゃいと手招きをする。「ぼく」はついていこうとした。

 この女は「ぼく」をこの場所で待っていてくれたのだ、この女だけが「ぼく」を救ってくれる。そんな確信めいたものがあった。なぜだか、わからない。そうだ、この女だけが「ぼく」を救ってくれる……。「ぼく」は女のもとへ行こうとする。

 リーン、リーン、リーン。

 電話のベルの音に夢を邪魔された。頭の中が次第にハッキリしてくる。それとともに、体中がバラバラになりそうな身体の痛みに気づく。朦朧とした意識の中で、これで「ぼく」はもう決して救われない存在になったのだと思った。

 

アパートの電話が鳴って目覚めた。

 とっさに時計をみる。今ごろ誰からだろう。すでに深夜の午前二時だった。疲れと痛みで「ぼく」は夜の一〇時ころには倒れるように眠り込んでいたのだ。

痛めつけられた身体の苦痛に耐えて、電話の受話器を上げる。

 「オレだ。Kだよ。おいッ、オレの力がわかったかッ!」

 驚いた。Kの方から電話してくるなんて、今までで始めてのことだ。電話番号をなぜ知ってるんだろう。調べたのか……。

 「お前なあ、少しは懲りたか。身体が痛いだろう。もうオレのことを調べようなんて気持ちは捨てることだ」Kは受話器の向こうでまくしたてた。

 「……。それで……」

 「それで、もクソもねえんだよ。やめろって言ってんだ。いい加減にしろ。これ以上やるんだったら、もっと痛い目に会わしてやるぞ」

「Kさん。ヤクザか何か知らないが、ぼくをナメないほうがいい。ぼくには何も怖いものなんてありませんよ、今はね。どうせ、ぼくはもう救われない人間だ」

「だまれッ、このキチガイ野郎! あれだけ痛い目に遭っても懲りないのか。お前、そんなに入院したいのか」

「Kさん、ヤクザには狂気はないでしょう。あったとしても常軌をわずかに越えているだけだ。しかし、このぼくには常識なんて最初からありませんよ。わかりますか」

それまで勝ち誇ったように威圧的に、そしてサディスティックに電話で怒鳴りつけていたKは「ぼく」の言葉に動揺したようだった。押し黙ってしまう。それでも精一杯の虚勢を張るように、Kは押し殺した声で言った。

「いいから、もうやめろ!」

「いいや、ぼくは絶対にやめない。アナタをコロス!」

Kは無言で電話を切った。

「ぼく」は相手が虚勢を張っていることを嘲り笑いながら、自分もそうなのかと思って、わずかに自己嫌悪した。

身体のあちこちの苦痛が復活し、うめきながら「ぼく」はそのまま寝込んでしまう。間違いなく身体が休息を欲していた。全治三週間という医者の診断だったが、完全に痛みから開放されるのは少なくとも一か月ほどはかかるだろう。

 しかし、これで「ぼく」のK調査は終わったわけではない。

 どんなに脅されたって、やめてたまるか。冗談じゃない。そこに理由なんてない。もう理由などいるものか。

 何があろうと決してくじけはしない。何があっても「ぼく」の決意は揺るぎはしない。ふんぞり返っているKを引きずり降ろし、小便を垂らしながらの命乞いを冷たく聞き流してやる。自分の能力のすべてを賭けてKをブッ殺す。必ずブッ殺してやる。

 パラノイアとでもストーカーとでも呼びたければ呼ぶがいい。

 そうとも「ぼく」は狂っている!

 

 

 一週間は寝て暮らした。そして、「ぼく」は考える。

 Kはなぜ「芦屋のボンボン」などという虚飾に満ちた仮面をかぶらなければならなかったのか。そうしないではいられない何かがあったのか。

 彼の精神的なルーツは何なのか。あいつの言動はどのような個人史の上に成り立つものなのか。

人は、それぞれの立場、信念、信仰、思考、思想、感情、感覚などから、それぞれの意見を言い、それぞれの行動を取る。そして、人の意見や行動は人が生きてきた「文脈」によって明らかにされるのだと思う。

 ならば、「ぼく」はKという人間の人生そのものを否定した上で、殺してやる!

 身体が回復し、動けるようになってからの「ぼく」はまさしく精力的に、Kの人生を暴き出していった。もちろん、「ぼく」はKやKの依頼を受けたヤクザ者の襲撃に備えて、自宅には自作の警報装置を取り付け、路上を歩く時も食事をする時もいつでも警戒は怠らないようにした。

 

 いったい、Kはどんな人生を歩いてきたのだろう。

 まず最初に、「ぼく」はこの地域の小学校を調べてみることにした。住宅地図を拡大コピーして、社宅から半径一キロメートルほどをコンパスで円に囲む。公立の小学校ならこの円の中にKの通った小学校があるはずだ。通学距離はまあ一キロを越えることはあるまい。私立小学校の場合はまた次の手を考えることにする。

 半径一キロメートル円に存在する公立小学校をリストアップすると、該当した学校は四つだった。そこでY、T、O、Sという四つの小学校を当たってみる。卒業年次はわかっていたから、調査には大した時間はかからない。Kの卒業後に出来た新設校を除外して絞り込んで調べていく。

 すると、すぐにKが通っていたのは大田区立Y小学校だったことが判明した。その場所に驚く。社宅へ通じている小川沿いにY小学校はあったからだ。「ぼく」も歩いたあの道だ。Kはあの小川沿いの小さな道を歩いて学校まで通学していたのだろう。脳裏に光景が浮かぶようだ。

 昭和四六年にKが区立Y小学校を卒業していることは記録上、明らかな事実だった。同時に同窓生のリストも手に入れておく。

 有名人の場合、プロフィールには最終学歴しか記されていないことがほとんどだ。しかし、調査によって、再三「自分は芦屋のボンボンだ」ということを強調していたKのウソは証明された形になった。

たとえば、九一年七月に発行された『週刊P』で、Kは 「オレは昔からガンマニアだった。芦屋に住んでいたオレは小学生の時、東京に遊びに来ると、そのたびに上野アメ横のモデルガン屋に来ていたんだ」とも発言している。

ことさら芦屋育ちを強調して、自分が東京にいなかったようにK自身は語っているわけだが、Kは芦屋の小学校ではなく東京の小学校に通っていたのである。よくもまあ大ウソがつけたものだ、と思わず「ぼく」は笑みを漏らす。

 ごく普通に考えれば、同級生もいるわけだから、こんなウソを商業誌に書き連ねるのには無理があると思われる。しかし、一度ついたウソを補強しようとして、ウソにウソを重ねていった結果、Kの判断力が麻痺していったのかもしれない。

 現実に彼の過去を知る人間に直接会ってみたい、と「ぼく」は思った。

そこで、大田区の退職教職員名簿から、小学校当時、Kの担任だったA先生を捜し出すことに成功した。Aさんに電話をかけてみる。

「はじめまして。私は月刊誌Rの記者ですが、雑誌などのマスコミで御活躍しておられるKさんについて取材しています……。A先生は昔、大田区のY小学校にいらっしゃいましたよね……。当時、そのKさんは同じY小学校に通っていたんです。ええ、わかりますか。では、ぜひ一度お会いしてお話をお聞きしたいのですが……。」

月刊誌記者を名乗ったのは、実際に彼の実像を知りたいと考えている「ぼく」の質問に無理を生じさせないためだった。「人気者の知られざる素顔!」といった企画なのだ、とAさんには説明しておく。

 待ち合わせは次の日曜日になり、Aさんの住まいの近くの喫茶店で会うことになった。当日、スピード印刷屋で作らせた偽名の名刺を持参して、待つ。

「何ぶん古い話ですから、お役に立てますかどうか……」

 Aさんは元教育者特有の礼儀正しさと律儀さで、すまなさそうに言った。

 「Y小学校の時でしょう。二十年以上前のことですが、確かにK君のことは覚えております。私が担任するクラスでしたから。T燃? ああ、はい。K君はT燃料工業の社宅に住んでいたのは間違いありません。K君ばかりではなく、あの当時のY小にはT燃の社宅アパートから通っている子供がかなりいましたけどね……」

 元教師・Aさんの、元生徒達に対する暖かいまなざしが感じられた。

 「先生にズバリ、お聞きしたいんですけど。小学校時代のKさんの印象はどのようなものでしょうか? 決して、Kさんのことを良く言ってくれということじゃなくて、ズバリの印象ですね」

 「……う〜ん、ズバリ、ですか。特に印象のない目立たない子供でした。……ちょっと記事にはならないかもしれませんね。記者さん、すみません」

 それは、ゾクッとするようなリアルな答えだった。記事になんかならなくとも、その言葉はズバリ重かった。「目立たない子供」という、その言葉の向こうに「顔のない子供」がいた。

 同窓生のリストを活用して、さらに何人かの小学校時代の同級生たちから「ぼく」は話を聞いていった。

 「えっ、K君って有名になってるんですか。全然知らなかった」

 「申し訳ないんですが。私はよく、覚えていませんね」

 「記憶にあることはあるんですけど、たぶん話したことはほとんどないと思います。T燃の子かな?」

 「覚えてますよ。私もT燃の社宅でいっしょだったから。活発な子じゃなかったです。ただ、小学校六年の時だったかな、近くのマンションに引越していっちゃってからは遊ばなくなりましたね。ええ、あの時は嬉しそうにね、家を買ったって喜んでましたよ。K君があんまり自慢するものだから、ぶん殴ってやりました。私としては何だか面白くなくってね。こっちはずっと社宅だったから。たぶん、私も子供だったから嫉妬があったんだと思います」

 「いたのは記憶にあるんですけど、地味な目立たない男の子でしたよ」

 「K? ああ、いました。いました。どちらかといえば、イジメられっ子でしたね、どちらかといえばね」

 「自分もT燃の社宅にいたんですよ。おとなしいヤツでね、自分も社宅の砂場でイジメたりしたことがありましたよ。ただ、その後にテレビや雑誌で見て、感じが変わってて驚いちゃいましたけどね」

 A先生の言った印象のなさは同級生の中でもあまり変わらない。ただ、「Kはどちらかといえばイジメられっ子だった」という話は興味深かった。無論、当時の社会状況を考えれば、イジメはまだ深刻なものではなかっただろう。

 それにしても、と「ぼく」は思う。Kが「芦屋のボンボン」と言いながら、関西弁をほとんど話さなかったのが不思議だった。そこがボンボンだからなのかと思っていたが、無理はない。Kはずっと東京で育ってきたのだから。

 

 Kはそのまま大田区立の中学校に進学している。

 そして、同級生の証言は中学校に入ってから変わった。

 「イジメられっ子? いやあ、逆ですよ、逆。あいつはイジメっ子でしたよ」

 「ぼくはY小学校の時から一緒でした。時々はね、Kもイジメの対象にはなってたんです。元々、小学校の時はイジメられてたし。それが、何か、いつの間にかって感じに変わってんですよ。別の小学校から来た弱いヤツをイジメだしたりして……」

 「弱い者イジメっていうのかなあ、強いヤツには調子のいいこと言って御機嫌取ってたんですけどね、弱いヤツにはずいぶん残酷な面はありましたね。でもまあ、子どもの頃の話ですからね。そんな悪くは書かないんでしょ、記者さん」

 「そりゃ、どちらかといえばK君はイジメっ子ですよ。当時のイジメですか? まあ、そんなに陰湿なものじゃなかったですけどね」

 何人かに取材すると、どうやらKは「自分よりもさらにイジメられっ子である子供をイジメることで、自分がイジメられるのを避ける技術」を身につけたようだった。イジメられっ子でもなく、純粋なイジメっ子でもない。疑似イジメっ子とでもいうような少年、それが中学時代のKだった。

 これは、「疑似体育会系」とでもいうべき、現在のKの人格にも通じている。

 ところで、その後、Kの命を受けたヤクザ者の襲撃は止まっていた。様子を見ているのかどうかはわからない。自宅に取り付けられた自作の警報装置は鳴ることもなく、外出中も「ぼく」に対して危害を加えようとする者は現れてはいない。

 また、留守中に室内を無人で録画し続ける監視用のビデオカメラをセットした。広角レンズを付けた単体小型カメラを巧妙にセットし、ケーブルを延ばした。それを隠したVHSのビデオデッキにつないで三倍モードで録画をし続けている。このシステムにしたのはバッテリー切れの心配がなく、また最長で九時間の撮影ができるからだった。

 

昭和四九年、KはT大学付属T高校に進学している。

 T高校は品川近くの港区にあり、近くには寺院も多く、高級住宅地でもある。彼は実家から私鉄に乗って、五反田で地下鉄に乗り換えて三年間通学したはずだ。

 「ぼく」は同級生から同級生へ証言をつないでいった。その中でこれまでの調査に足りなかったこと、不確かだったことを埋めていく。

 「K君といえば、8ミリ映画を作ってたのは覚えてます。目立ってましたから」 

 「自分はそんなに親しいほうじゃなかったけど、Kはにぎやかな性格でしたよ。声が大きくて。成績は普通くらいだったかな」

 「うるさいヤツでしたよね、あの頃から。あいつ、8ミリ映画は確か、カメラマンやったんですよ。ぼくも出演したんです」

 「私はK君とは三年の時にいっしょでした。ええ、B組です。ああ、そうだ、思い出した。T三年B組Uってクラスの名前を付けたサバイバルゲームのチームを作ってましたね。ガンマニアの彼がリーダーになって作ったんです」

 「ぼくはサバイバルゲームのチームに入れられたんです。TゾンビーUって専門用語なんですけど、知ってます? ゲームで撃たれたかどうかってのは自己申告だから、インチキやっちゃう事なんですけどね。あいつはインチキやってたんです、本当はね」

 「ぼく」は同級生から話を聞く作業を、進学順に小学校から高校へ進めていったことで、Kという人間の変化をつぶさに知ることができた。目立たない子供だったKは高校の頃からハシャギぶりを発揮し、むしろ目立つ「声の大きい、うるさい男」になっていったらしい。疑似男としての体質、何らかの仮面をこの頃から身につけていったようなのである。こうして、「物語」のリンカクが描かれていった。

 元友人たちはさらに語る。

 「マスコミで活躍してるのを見て、数年前、Kに連絡してみたことがあるんですよ。昔は友だちだったから。そうしたら、全然態度がひどいんですよ。オレは有名人だ、なんて威張っちゃってね。それ以来、連絡してないです。昔は友だちだったんですけどね」

 「Kさんとはクラスはいっしょだったけど、特に親しくはなかったですね。何でも父親が石油会社の社長だ、なんて言ってました。それは覚えてますね」

 「記者さんには悪いかもしれませんが、イヤなヤツでしたよ。私は苦手なタイプでした。オヤジは石油会社の重役だって威張ってましたね」

 「当時はKとかなり親しかったんですけど、その後は続いてないですね。高校の頃は家に遊びに行ったこともありますよ。そう、大田区のマンション。でも、オヤジが会社重役というには何ということのない庶民的なマンションだったな、そういえば」

この頃にもすでに彼の「ボンボン発言」の萌芽が見て取れる。その虚言がいつの間にか「芦屋の資産家の子息」にまで発展していったのだろう。

 

そして昭和五二年。Kは付属高校からエスカレーター式にT大学工学部××××学科へ進学することになる。

 大学の卒業名簿のコピーはすでに名簿図書館で手に入れてあった。工学部××××学科の在籍者は八九名。大学の場合は学部や学科が違えば、ほとんど接点はないだろうと考えて、「ぼく」はこの八九人に調査を絞り込んでいった。しかし、同じ学科であっても特に親しくない人間の場合は、これといった回答を得ることができなかった。

 そして、Kと親しかった同級生で「ぼく」が会えた人間はほとんどいなかったのである。Kが手を回していたからだ。同級生たちの反応は奇妙だった。明らかにごく最近何かをKから言われたらしく、それを理由に「取材」を断ってくる人間も複数いた。

 中には「ぼく」が電話をしたとたんに、

 「Kが自分のことを調べてるキチガイがいるって言ってたよ。あんたがそのキチガイだろう。何も話すことはないよ」

 と電話を叩き切った同級生もいたほどだ。

 Kは「ぼく」が調べ回っているのを警戒して予防線を張っているようだった。

 昭和五六年、KはT大学工学部を卒業する。

 母校の研究室に残されていた、Kの『第五世代の超音速旅客機TTSの可能性』という卒業論文はかなりお粗末なものであった。

 もっとも彼は工学部の専攻分野を生かした就職決定をしなかったから、卒論の不出来は無理もないかもしれない。Kは就職活動ではマスコミ企業ばかりを受験していることがわかった。

 大学の学生部には就職に関する資料が残され、公開されていた。学生がいつ頃どんな企業の就職試験と面接を受けて、試験は何次段階まで合格したか。いつ頃に何次試験の結果で不採用通知を受けたか。そして、最終的にどのような企業に採用され、就職したか。そうした資料は母校の後輩たちが参考にしたり、希望企業へ就職した先輩に相談に行けるように、自由に見ることができるようになっていた。

 この「ぼく」も大いに参考にさせてもらった。

 Kはラジオ・テレビ局、出版社など無節操にマスコミなら何でも受けている。よほどマスコミの仕事をしたかったのだろう。

 しかしKの「芦屋のボンボン発言」作戦も、実際の就職には何ら役に立たなかったらしい。マスコミへの就職活動はすべて不合格に終わっている。

 結局、Kが卒業後に就職したのは日本T・Eというコンピューターメーカーだった。この会社でKは営業部に配属される。

 T・Eの元同僚たちはこう語った。

 「問題はありましたよ。まあ、あの人はね……。でも、辞めた人間のことですから、あまりお話することはありませんね」

 「ああ、Kさんですか。調子のいい人でしたよ。その意味じゃ、営業向きって言えば営業向きだったかもしれない。ただ口先だけで仕事はできなかったですけどね。確かに出版社に転職してよかったんじゃないですか」

 「とにかく、『オレは本当はマスコミの仕事をしたいんだ』『オレは本当はこんな会社で働いてる人間じゃないんだ』『オレは本当はマスコミに向いた人間なんだ』って、いつも言っていました」

Kは本当は……何だったのだろう。

 「ぼく」は遠くを見ているような視線になっている自分を感じていた。

 

そして二年後……。

 彼は新宿ゴールデン街にある「昼夜マイナス・ワン」という酒場で、当時の『週刊P』編集長と知り合う。その人物は現在は役員になっている実力者だった。Kはその編集長に頼み込む形で、転職し、念願かなって『週刊P』編集部で働くことになるのだ。そして、Kは『週刊P』をホームグラウンドに顔を広め、その後は活躍の場を広げてラジオやテレビの出演も果たすことになる。

 それから今、八年が過ぎている……。

 

(つづく)

 

 

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