宅 八郎 presents

 

サ イ コ ホ ラ ー 小 説

『 K の 器 』 

 

 

 

第 十三 回  

 

 

chase24 :   灰 色 の 死  

 

 

 

 

 

東京駅―――二三時頃。

 「ぼく」は芦屋から東京に舞い戻った。東京駅の新幹線改札を出て、長い構内を歩いている。  笑いがとまらない。心の中に広がっていた黒い雲はすっかり晴れてなくなっていた。「ぼく」は駅構内を意気揚々と歩く。不思議なヒロイズムを感じて、さっそうと歩いてしまうようだった。すずしい歩き方になっている。

 どこか芝居がかっていて、そう映画や演劇のように感じられた。歩く自分の姿が目の前から見えるようだ。まるで自分が自分でないような気分が、心地いい。そうした感覚にひたることが「ぼく」は子供のころからあった。まるで神がかったような高揚感が心地いい。

 「ぼく」の心の中から消えたドス黒い雲は、今ごろKの身辺に広がっているに違いない。そしてKの心の中に巣くって、強烈な不安感をエサに育っていくのだ。いや、そうしてやる。この「ぼく」が、だッ。

 「ぼく」は電車に揺られながらニヤニヤと笑い、そして家路へと急いだ。

 芦屋での本籍地調査の成果は数日中には文書にしてKに送りつけてやろう。さらなる恐怖のために。

 そして、いよいよ準備を始めなければならない。K殺害の準備を、だ。

        *

 芦屋から戻った約一か月後―――。

 ついに「ぼく」はKを殺すために、一人ビルの屋上に潜んでいた。

 もう数時間が経っている。ビルの上の、灰色のコンクリートの地面を見る。黒でもない、そして白でもない。何てイヤな灰色なんだろう。黒だと思えば黒く見え、白だと思えば白く見えるコンクリートの色。その灰色は不安を呼ぶような種類の濁った灰色だった。

 よく見れば、ところどころがヒビ割れて、ザラついた地肌になっている。灰色といっても一様に灰色なのではなく、まだらに何年間かの風雨の痕が染みついていて、それが全体に濁ってイヤな灰色になっている。複雑なまだら模様の灰色だ。

 「ぼく」は灰色の臭いを嗅いでいた。

 コンクリートの地面には、雨水が流れやすいように大きなマス目様の溝が切られている。そして間近に見れば、その細かな溝の中を数匹の蟻が歩いている。蟻たちは幾何学模様の溝から、ヒビ割れた裂け目の中へ迷い込んでいった。蟻たちはいったいどこからこの屋上まで登ってきたのだろう……。灰色の四角いコンクリートの地面に横たわりながら、灰色の臭いを嗅いでいる。

 「ぼく」はビルの屋上で、腹這いになったまま狩猟用のライフルを構えていた。

 Kを銃殺刑にしてやる!

 そのビルは、Kの住むマンションの隣のマンションだった。このビル側にKの603号室が面している。屋上からはやや階下だがKの部屋が丸見えだった。最初はM通りの向かい側のビルから狙撃しようとしたが、この仏壇屋のあるマンションは屋上へ出るのが楽だったために、こちらにしたのだ。

 「ぼく」は猟銃のスコープでKの部屋を覗き見る。映画や劇画に出てくる国際的スナイパーにでもなった気分だ。

 Kの部屋の、こちら側に面した窓には後から付けたらしいエアコンの配管が見えている。不動産屋から入手した間取り図よれば、その部屋は洋室のはずだった。窓ガラスはスモークがかかっていて、さすがに部屋の中は見えない。

 M通りと反対の路地側、つまりこのビルから右側には、Kの部屋のベランダが見えている。ベランダに面している部屋は和室のはずだ。

 狙撃できるポイントは二つだった。つまり、こちら側の窓から洋室へ撃つか、あるいは和室からベランダに出たところを撃つか、だ。M通り側は各室に通ずるマンションの外廊下になっているが、このビルからはよくは見えない。

 「ぼく」は猟銃二丁と空気銃を一丁持ってきていた。空気銃はモデルガン・ショップで買い求めたが、猟銃は刑事ドラマじゃあるまいし、銃砲店から盗むなどということはできなかった。では、「ぼく」はどうやってその猟銃を手に入れたか。

 Kはガンマニアであることを常に自慢している。その彼が世田谷区の猟友会に所属していることが調査の上で判明した。もともと彼が所属していたのか、あるいは取材で知り合ったのかまではわからない。「ぼく」はその猟友会の会員名簿を手に入れた。そして、会員の中で管理が悪そうな人間を一人づつ当たって、猟銃と充分な量の弾丸を奪ったのである。

 あとは、奥多摩の山の中で練習を積んだ。映画やマンガのような精度の命中率はいくら練習しても無理だったが、別に「ぼく」は一発でKの眉間を狙おうというわけではない。あいつの身体のどこに当たっても、激痛にひるんだところで二発三発四発と、鉛の弾を続けてブチこんでやればすむ。練習の成果で、必殺の自信があった。

 ビルの屋上に伏しながら、ふと思う。数日前、これまでKに送り続けていた「黒い報告書」のコピーを読み返したことがあった。

 自分で書き記した自分の文章を読んだところ、字間と行間が乱れて印字された、その文面が歪んで見えた。ところどころ、おそらく強調したいことを必ず正確に三回繰り返している反復性などがそこに読めた。そのコピーの文面からは、まるで自分自身の精神に異常が忍び寄っていることを示しているような気がしてならなかった。

 そこで「ぼく」は途中で思考を中断して引き返すことにした(なぜなら、そう読めてしまう自分が少し精神的に変調しているようにも思えたし、何よりも思考を中断することが発狂から逃れる手のようにも思えたからだ)。

 ザラついた灰色のコンクリートの地面。

 ザラついた灰色のコンクリートの地面。

 ザラついた灰色のコンクリートの地面。

 「ぼく」はその灰色の地肌を見ていると、軽い吐き気とともにイヤな予感に襲われる。ビルの屋上から、ふと下を見ると吸い込まれるような気分になった。転落したら、死は免れないだろう。

 いっそ飛び降りてみようか。

 いっそ飛び降りてみようか。

 いっそ飛び降りてみようか。

 「ぼく」は高所恐怖症ぎみのところがあった。

 高所恐怖症。

 高所恐怖症。

 高所恐怖症。

 高い所に登った時にその不安に耐えられなくなってくる。つまり、神経にこたえる場所にいることに耐えられなくなってくる。それで飛び降りることですべてを、おしまいにしたくなってしまうのだ。

 おしまい。

 おしまい。

 おしまい。

 いつのことだったか、そのビルから落ちた記憶があるような気がした。もちろん落ちていたとしたら、今「ぼく」がここにいるはずがない。あり得ないことだ。しかし、不思議なことに不気味な既知感(デジャブー)に、心当たりのない不安を覚えるのだ……。

 不気味な既知感。心当たりのない不安。

 不気味な既知感。心当たりのない不安。

 不気味な既知感。心当たりのない不安。

どこか遠くでネコの鳴き声がした。地上にいるネコの声が風に乗って耳に届いたのだろうか。それとも、このビルの中から聞こえたのだろうか。「ぼく」はそのネコの声にも記憶があるように思えていた。

 頭痛がしている。ああ、あれはいつのことだっただろうか。

 ビルの屋上。そして猫の声。銃声。灰色の視界。理性的に記憶を辿ってみるが、そんな記憶はない。きっと錯覚にちがいない。

もう、この屋上には何回か下見に来ている。そのための既知感だろうか。来る度に「ぼく」は墜落しそうな恐怖感に襲われた。

 しかし今日は決行の日だ。失敗はしない。

 ザラついた灰色のコンクリートの地面。まるで精神科の心理テストのような灰色。

 気分が悪い。ひどく、むしゃくしゃする。のどに何かがつかえているような不快感だ。自分の脊髄にまるでさっき見た蟻たちが何千匹もうごめいているような不快感にめまいがする。

 何か大切なことがあったのに、それが何だったか思い出せない。忘れている何か……、とても大切なこと……。

 屋上に上ってから四時間以上が経っている。

 周囲から目撃されることを警戒して、屋上を歩き回らないようにしていた。給水塔を取りまく鉄扉の中で、ポンプの音を聞きながらひっそりと「ぼく」は時を待った。

 空を見る。昼までは晴れていた空が、どんよりと曇ってきている。イヤな灰色の空。不安な雲行き。そしてコンクリートの灰色。

 今日の天気予報では夕方から夜にかけて雨、とのことだった。Kのベランダには少しの洗濯物が出ている。昼頃に干されていた洗濯物をそろそろ取りにKが出てくるはずだった。

長時間ビルの屋上にいて、この灰色のコンクリートを見ていると、本当にビルの上から飛び下りたくなってくる……。

 飛び下りてみようか。さあ。さあ、さあ早く……。

 本当に、さっきから「ぼく」はひどい耳鳴りに悩まされているのだ……。

 Kが部屋にいるのは確認ずみだった。しかもKの妻は買い物にさっき出たばかりだ。後は洗濯物を囮にヤツを誘い出すだけだ。そろそろだ、と思って給水塔から出た「ぼく」はKの部屋側に腹這いになったまま、「その時」を待っている……。

 「ニャア」

頭の中でネコの声がした。その幻聴を振り払うように「ぼく」はKの部屋をこの眼で睨みつける。そして、しっかりと肩に付けた空気銃の狙いを定めた。

 今だ!

 「ぼく」はKのベランダに向けて空気銃を放った。最初ははずれたが、数発も撃つと着弾点がはっきりしてくる。ベランダに置かれた鉢植えを狙う。

 空気銃の音は改造強化を施してあるとはいえ、大したことはない。しかもM通りを走る自動車の騒音に邪魔されて、近隣の住人に異常を気づかれる恐れはない。これも実験ずみだった。

 空気銃の弾丸の何発かの兆弾がベランダの上を踊る。やがて鉢植えに命中して、砕け散った。そのベランダの異常が、部屋の中にいるKの耳に届かないわけがない。気配を察して出てくるはずだ。

 「ぼく」は空気銃を置く。そして待った――。

 たった数秒がゆっくりと経過する。やがて、ベランダのガラス戸がガラガラと音を立てて開けられた。

 おかしいな、どうしたのかな、という表情でKがベランダに出てきた。そして、鉢植えの破片を隅に片づけた後で、ヤツは洗濯物に手を伸ばす。

 死ねッ!

 「ぼく」は猟銃の弾丸をありったけ、Kに目がけて撃った。さすがに空気銃とちがって、あたりに轟音が発せられる。硝煙の臭いがビルの屋上に漂う。

 びくん、と本当の異常を察してKの身体がすくむのが見えた。かまわず「ぼく」は銃弾をたたき込む。

銃撃による音と振動、そして緊張が「ぼく」の頭痛をひどくした。さらに、その頭痛さえ気にならなくなるほど連射する。

死ねッ、死ねッ!

白い洗濯物に赤いシミが広がった。さらに撃つ。Kが物凄い悲鳴を上げてベランダにころがった。さらに撃つ。Kの身体に銃弾がたたき込まれていく。

死ねッ、死ねッ、死ねッ!

やがてKの動きが止まった。すでに死体になっているように思えた。銃身が熱く焼けた。さらに撃つ。銃弾が命中するたびにKの身体が揺れる。白い洗濯物はすでに真っ赤に染められていた。Kの身体から流れ出た血だまりがベランダにできている。その血だまりの赤いプールの中でKは微動だにしない。

 やった! Kを殺したぞ!

大きく「ぼく」の息ははずんでいる。その時だった。ビルの屋上にいる「ぼく」の真後ろで「ニャア」とネコの鳴き声がした。今度こそ幻聴なんかじゃない。

 驚いて振り向いた「ぼく」の視界には血まみれのネコがいた。

 黒と白のブチ模様のネコ。そのモノトーンのネコの身体のあちこちが真っ赤な血で彩られている。良く見れば、それは空気銃で全身を撃たれた、悲しい姿だった。片目はつぶされて見えないようだった。

 ふらつきながら、うめくようにネコはもう一度「ニャア」と鳴いた。

 思い出した。確かにその記憶はある。それはKによっていつの日か、ビルの屋上でさんざん撃たれたネコだった。

 めまいがした。そうだ、ようやくすべてを思い出したぞ。そのとたんに「ぼく」はバランスを失ってビルの端っこから転落した。右肩に熱い激痛を感じていた。

 落ちる――――。

 

 地面に激突するショックを感じて「ぼく」は悪夢から覚めた。汗まみれになっている。何度も繰り返し見ている夢の続きだった。どうしたことだ。悪夢から覚めたものの、どこかにあのネコがいるような気がしてならない。「ぼく」はアパートの部屋を見回した。

 狂ってる!

 「ぼく」はもしかしたら頭がおかしくなっているのかもしれない。続けざまにこんな夢ばかりみるなんて。

 しかし、どんなに頭がおかしくなろうとも、最も大切なことは忘れてはいない。

 それはKを殺すことだ!

 「ぼく」は子供の頃から頭がおかしくなりそうになることが度々あった。少年期から青年期にかけては、自分が発狂しかけているのではないか、と震えるように怯えたことが何度もあった。「今日こそは気が狂いませんように。今日こそは気が狂いませんように」と祈るような思いで過ごした日々だった。

 しかし、どう判断してみても自分の正常さには間違いのない確信があり、精神病か何かのレッテルを貼られてしまうことを恐れて、誰にも相談せずに今まで一人で生きてきた。一人でな。

 そんな子供の頃から、「ぼく」は頭がおかしくなりそうになると、ゆっくりと指を折りながら九九を数えることにしていた。

 二二が四、二三が六、二四が八………九八、七二、九九、八一。

 よし、大丈夫だ。「ぼく」はどこもおかしくない。

 Kを殺す!

 理由なんか、もうどうだっていい。今日から「ぼく」は人間じゃない、そう誓った。

 

 

(つづく)

 

 

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