宅 八郎 presents

 

サ イ コ ホ ラ ー 小 説

『 K の 器 』 

 

 

 

第 五 回  

 

 

chase10 : 商 工 図 書 館 と 証 券 情 報 室

 

 

 

 

 Kの住むマンションがT自動車の社宅でないことはわかった。

 しかし、K家がT自動車の関係者である可能性がゼロになったわけではない。今度はT自動車の側から調べてやろう。T自動車は日本を代表する企業であり、一大コンツェルンを誇っている財閥だが、もしも、K家との関わりがあれば、何かわかるかもしれない。

 その日、「ぼく」は急いで身支度すると、あわてて家を飛び出した。行き先は東京商工会議所だった。

地下鉄千代田線・二重橋駅。その日比谷方面改札を出ると、目の前に商工会議所はある。その地下二階が商工図書館だ。

 オフィス街は見方によっては無気味な印象がある。ビルしか見えない風景は殺伐として、木立らしい木立もない。そして、歩く人間もまた、それが当たり前のように地味なビジネスマンだらけだ。みんなが匿名で行き、まるで触れ合うことのない街だ。すれ違う人も誰なのかは分からず、それどころか互いに顔を合わせた記憶すら残らない。

 グレイや紺のスーツに彩られたオフィス街――。そんなスーツ着用率がきわめて高い商工会議所の地下二階へ、「ぼく」はジーパンのまま降りていく。

商工図書館で、ダイヤ×××社から出版されている『×××社員名簿』を調べてみた。これでT自動車の役員・経営陣がわかる。

しかし、社のトップだけでなく、部長職以上の社員にまで広げてK姓の人物がいるかチェックしてみたが、思うような結果は得られない。つまり、Kという姓の人間はまったく見当たらなかったのだ。次第にあせりながら、本社だけでなく関連会社までもすべて調べてみる。関連会社にまで調査の手を広げると、チェックしなければならない資料はかなりの数になった。

 しかし、やはりダメだった。「ぼく」の焦燥は濃厚だった。T自動車の関連会社すべてにK姓の人物は一人も存在していない。

あきらめて、ビジネスマンの群れに混じりながら、「ぼく」は地下鉄千代田線に戻る。すぐ入ってきた電車に乗った。ドアが閉まる。乗ってから気づいた。

 「しまった。大株主って可能性もあるぞ」

 ちょっと考えた。

 「戻ろうか。いや。そうだ、兜町だ」。

 地下鉄を乗り換えて、茅場町駅で降りる。「ぼく」は東京証券会館へ入っていった。その一階は証券広報センター証券情報室だ。

 株式市場の桧舞台、兜町。しかし、兜町という駅はなく、茅場町駅が最寄り駅になる。「兜町」は証券マンだらけで、その風貌は商工会議所の周辺で見かけた男たちと同様に、誰もが白のワイシャツに紺かグレイのスーツ姿だ。しかし、彼らそれぞれが、日本経済いや日本そのものを動かしているのだ、という顔つきにも見える。

証券情報室に入った。そこで、「ぼく」は東洋××社から出版されている『大株主総覧』を閲覧し、商工図書館で作成したT自動車グループの関連会社リストと照らし合わせてみる。 念のために名義書換の資料も見た。

しかし、やはりダメだった。大株主にもKという姓の人物は存在しない。どう考えても、T自動車とK家はまったく関係ない。そう断定するしかない。

 くやしいが、現実は現実だった。

 仮にK家がT自動車と関連があれば、それまでの調査が破綻した理由が理解できたはずなのに……。そして、Tの喉元に食い下がっていくことができたのに……。「ぼく」は執拗に追ってきた一本の糸がプツリと切れたのを感じていた。

 切断された一本の糸……。

 とにかく、これで振り出しに戻ってしまった。

 脱力感が激しい。また、これで一切の手がかりを見失った。まるで胸の中にドス黒い雲が広がっていくようだ。どこかでKがせせら笑っているような気がした。

 これまでの調査の破綻はいったい何を意味していたというのだろう。

 

 

 数日間は暗い虚脱感から抜け出すことができなかった。

 もちろん、これですべてが終わったわけじゃない。いや、絶対に終わらせてたまるか、と思う。しかし、そう考えれば考えるほど、挫折の意識を自覚して自分自身の精神状態を悪化させた。

 「ぼく」は行きづまってしまった調査の過程を記して、Kに手紙を出す。

 これが〈定期便〉の何通目かは忘れた。これを読んでKは一安心するのかもしれない。いや、わからない。そうじゃない…………。やはりKは安心できないだろうと思う。この「ぼく」があきらめてしまわない限りは。あきらめてしまった時こそが、Kが安心する時なのだ。そう、ヤツは次の手紙を待っているはずだ……。「ぼく」が次に取る手段が何なのか、それを不安に感じながらヤツは過ごしているはずだ……。

 あきらめてたまるか。何とかKに近づいて見せる。Kにはもっともっと悪い夢を見てもらうために、この「ぼく」が存在してやるんだ。この暗い執念だけは絶対に捨てない。

 何か。何か、見落としている点はないか。

 調査に行き詰まった「ぼく」はもう一度、彼に関する資料をたんねんに見直すことにした。「ぼく」の自宅には、Kの資料が項目別になって紙袋に詰められている。それをもう一度引っ繰り返して一枚ずつ整理する。

  わからない……。仮に彼が芦屋のボンボンでなかったとしても、それを覆す証拠がない。否定する証拠が見つけられなければ、それは否定も肯定もどちらもできない彼方へとKを追いやることにしかならない。そうだ、どうしても彼の人生を証明しなければならない……。

 『人間の証明』という推理小説がかなり昔ベストセラーになり、映画化され、これも大ヒットしたが、それは人の封印された過去を遡っていく物語だったことを思い出していた。確かに、「ぼく」が今やろうとしているのは『Kの証明』なのだろう。

ピンポーン!

突然、チャイムが鳴ってビックリする。さっき頼んでおいた、宅配弁当屋が配達に来たらしい。自炊をする気にもなれず、かといって外食に出る気にもなれなかった。その宅配弁当は日替わりメニューがある上に、味も値段の割には悪くない。このところ、弁当を配達してもらう生活が続いていた。

 弁当を食べながら資料を見る。昔からひどい活字中毒症の「ぼく」は食事をしながらでも何か文字を読んでいないといられない。外食の際にも何か本や雑誌を持っていかないと不安になってしまう「ぼく」だった。

 そこで、食事をしながら、資料の紙をめくる指が一瞬停止した。

 そうだ!

 重要なことを見落としていたことに気づく。それまでも見えていたはずなのに、まるで死角のように見えなくなっていたデータに気づいた。

 Kの経歴だった。

 プロフィールの一点に目がクギづけになる。最終学歴だ。「昭和三四年生まれ T大学工学部××××学科卒」という記述を食い入るように見つめる。

 今まで気づかなかったなんて、どうしようもないバカだな「ぼく」は。これだよ、これ。ここから、たどっていけばいいじゃないか。

 狂喜に胸が高鳴った。まるで、曇り空の下、微かな光が雲間に差し込んで、一気に視界が明るく開けてきたようだった。

 しかし、待て。

 「ぼく」は自分に落ちつけ、と言い聞かせる。資料の記載ミスということも考えられなくはない。ぬかよろこびは、もうゴメンだ。慎重に複数のプロフィール資料を照らし合わせてみたが、間違いない。まったく同じ最終学歴が書かれていた。

Kは一九八一年三月にT大学工学部××××学科を卒業している。

 生年月日から計算すると、現役で大学に合格して四年間で卒業しているとして、つじつまも合う。万が一これで調査を進めることができなければ、Kは学歴詐称なり年齢詐称をしていることになる。

弁当はまだ残っていたが、すっかり食べるのを忘れていた。 いや、空腹さえも忘れて考えに耽っていたのだ。しかし、いったん気分が落ちつくと急に腹が減り、「ぼく」はあわてて弁当の続きを食べた。

 

 

 

 

 

>>>NEXT      >>>BACK