宅 八郎 presents

 

サ イ コ ホ ラ ー 小 説

『 K の 器 』 

 

 

 

第 六 回  

 

 

chase12 : 逓 信 総 合 博 物 館 

 

 

 

 

電話がつながった。

 「フフフ。Kさん? 」

 「………。」

 余裕たっぷりに、しかし自信過剰ではなく、「ぼく」は話す。

 「“ぼく”ですよ、“ぼく”。お元気ですか、Kさん。そういえば前にも話しましたが、こうして電話回線を通じてアナタとぼくが話しているのは本当に不思議ですね。さて、ところで電話が伝えているのは果たして声だけでしょうか。そんなことを考えちゃいました。いや、電話回線のことだけじゃありませんよ。電話番号そのものから何が知れるでしょう、わかりますか。フフフフフ」

 「何だ、いったい何が言いたいんだ、お前は!」

 回りくどさに、苛立っていることがKの声から伝わってくる。そう、これは遠回しの謎かけだった。

 「アナタのことが一つわかりましたよ。次にあなたに届く報告書に書いておきましたけど、いち早くアナタに伝えたくってね」

 「この、キチガイ野郎! いったい何がわかったというんだ。何を考えてるんだ。お前は!」

 「ゆっくり言いますよ……大田区、東Y谷、二‐×‐一‐Yヒルズ610号室!」

 「!…………。」

 「昔は610号室、今は603号室。アナタは六階がお好きなようだ」

 「おいっ、お前はッ……」

 「ああ、さっき、キチガイと言いましたね。フフン。キチガイは確かに怖いでしょうよ。しかし、“ぼく”はタダのキチガイじゃない。Kさん、アナタに知能指数の高いキチガイはもっと怖いんだってことを一から教えてあげるよ。じゃあ、おやすみなさい。報告書が着いたら、あんまり眠れなくなるでしょうから、今のうちに睡眠をたっぷり取っておいたほうがいい。じゃあ!」

 「おいっ、おいっ、おいっ……」

Kは、続けて何かを言おうとしていたようだったが、「ぼく」はそのまま静かに受話器を置いた。

 

 

徹底的な調査の上でも、芦屋市にKという資産家が存在した痕跡はまったく見当たらない。しかし、「ぼく」の追跡者としての嗅覚は核心へ近づいていることを知らせている。近い。もうすぐだ。何とか「芦屋の謎」を解いてみせる。

手がかりはある。T大学卒業名簿から、Kが大学を卒業した時の住所と電話番号を調べることができた。

次に「ぼく」が打つ手は何か。

この住所は昭和五六年のものだ。これだけでは話にならない。Kはどこからこの住所に移転して、どこへ移転していったのか……? いったい、Kはいつからいつまで何年間そこに住んでいたのだろうか。大学時代四年間だけ? それとも……。

ある時点での電話番号と住所さえわかっていれば、調べる手がないこともない。当時の電話帳だ。

 明くる日、「ぼく」は大手町にある逓信総合博物館へ行くことにした。ここは郵政省の管理業務である通信と放送の博物館である。 館内は郵便、電話、無線などのコーナーに別れ、歴史的に貴重な展示物が数多く保存されている。

 また、全国各地の電話帳が開架式で置かれ、図書閲覧室では閉架式ではあるが、東京で過去に使われていた電話帳をも閲覧することが可能なのだ。

 この意味は大きい――少なくとも人の過去を追う者にとってはね――。過去の電話帳がどのように恐ろしい意味を持つのか、おそらくKは知らない……。

「ぼく」は地下鉄大手町駅の改札をくぐると地上出口へ上がっていく。目の前が逓信総合博物館、道路の向かい側は産経新聞社だ。

博物館の外の自動券売機で入館料金分のキップを買って、受付で渡す。そして「ぼく」はエレベーターに向かって歩いていく……。

 

 

一八七七年(明治一〇年)一一月、横浜港に一つの船便が到着した!

 アレキサンダー・グラハム・ベルが電話を発明してから、わずか一年後、日本に初めて電話機二台が輸入されたのである。

これをマネて国産一号電話機二台が作られたのは翌年、明治一一年のこと。このタイプの電話機は明治一六年までに四十一個製作されている。

そして一八九〇年(明治二三年)十二月六日、東京・横浜間で電話交換が開始され、この年が本格的な電話元年となった。すでに、この日本で電話は百年以上の歴史を持っているわけだ。

開通時に契約台数、197台だった電話は、三年後には約3000台の契約数となり、急速に加入数は伸び続けた。一九一二年(大正元年)には18万台、大正一一年には40万台を超え、昭和一四年には、ついに100万台を超えている。

第二次世界大戦の影響で昭和二〇年には54万台に減ったが、戦後に加入契約は回復し、さらに伸び率は急加速する。電電公社が発足した昭和二七年には、全国で150万台を突破。その一〇年後の昭和三七年には478万1000台、昭和四〇年には739万5000台、昭和四五年には1640万3000台と普及していく。

そして現在では全国で5759万9595台の総加入契約数になっている(平成四年度末)。

電話帳のルーツは、電話交換がスタートした一八九〇年、197人の名前が記された「東京横浜電話加入者人名表」だ。それが「電話番号簿」と名付けられ、冊子として発行されたのは一八九七年(明治三〇年)。

 電話番号簿が現在のような五〇音順、横書きになったのは一九二五年(大正一四年)のことだ。そして昭和二六年には、職業別電話番号簿と人名別電話番号簿の二冊発行となり、「電話帳」と改名されたのは昭和四六年であった。

 以降、地域によって一年から一年半ごとに電話帳は発行され続け、現在では全国の電話帳に掲載された契約者は約4220万6000人、電話帳の総発行部数は1億2200万部を超えている。

 

逓信総合博物館。

「ぼく」は逓信協会博物館部の女性職員に請求票を渡して、図書閲覧室で資料の到着を待っていた。

これで何かがわかるはずだ。

 まもなく台車に載せられて、「ぼく」が請求した通りに、何冊もの電話帳が運ばれてきた。それらはすべて昭和五六年以前の電話帳だった。

電話帳を〈読書〉する人間はほとんどいない。そして、図書閲覧室はほとんど利用者がいないせいか、公的な機関とはいえ意外なほどせまい。

 しかし、電話帳を〈読書〉しようという人間、それが「ぼく」だった。

 電話帳に羅列された人の名前を発行順に並べていけば、人口の増減、転出と転入が明らかになる。そう、電話帳からある者は消えたことが、ある者は新しく入ってきたことによって。世帯調査ほど厳密ではないにせよ、そこにおおむねの人口の推移を知ることができるだろう。

何冊もの電話帳を目の前にして、「ぼく」は幻覚にとらわれるような、めまいを感じていた。

そこにあるのは人の名前と電話番号、所在地の記述だ。

 記号化された他人の地図――。

 電話帳一冊分でさえ相当な厚みがある。それを数冊も並べた時に、掲載されている人の名前は意味をなさないほど、膨大な数になる。しかし、五〇音順に並べられ、気が遠くなりそうな量に達した人の名前は、確かに名前を持ち、この日本で現実に生活している人々の幻影なのだ。

 「ぼく」はこの閉ざされた無限の宇宙に、めまいを感じてしまうのだ。

地域別に電話帳を重ねると「人の宇宙」は空間的な広がりをふくらませていく。そして電話帳を発行順に並べていくことによって、「人の宇宙」は時間的な厚みを持っていく。

時間と空間、この宇宙のどこかに、Kが生きてきた証、痕跡が隠されているはずだった。

現在、東京で加入契約をしている電話は全部で786万2516台。そのうち電話帳に記載されている契約数はタウンページ、ハローページ合わせて556万4000台(平成四年度末)。つまり、電話帳記載者は加入者数の約七割ほどということになる。

 年々、電話帳掲載を拒否する人が増えているのだという。これは特に首都圏での傾向のようだ、というデータもある。確かにそれは、電話セールスやストーカー型犯罪の増加に比例して、個人情報を防御しようという傾向なのかもしれない。

現在のKもまた、電話帳に番号を記載していないが、これまで一度も番号を記載したことがなかったとは考えにくい……。しかも、昭和五六年当時の電話帳記載率はかなり高かったはずだ。それなら何かがわかる可能性は高い(一度でも電話番号を登録したことがあればいいのだから)。そして、過去の電話帳は現在のものよりも比較的、登録された住所表示が細かく記載されていることも「ぼく」はそれまでの経験から知っていた。

 

 

 「ぼく」は図書閲覧室で、Kが大学を卒業した昭和五六年当時に使われていた電話帳を調べることにした。登録さえしていれば、これで当時の電話番号の所有者がわかる。

五〇音順の索引を引く。あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ……み……。

ヒット!

ところが「大田区東Y谷×丁目」の住所で登録されていたのはKはKでも、Kの名字を持つ別の人物であった。K本人の電話ではなかったのだ。

おや。これはどういうことだ。K姓だから当のKとは関係ある人間にはマチガイないはずだが……。なぜだ? このK姓の人間は家族だろうか、それとも親戚なのだろうか。Kともう一人のK、二人のKはそこに何年間か同居していたのだろうか。

そこで「ぼく」は電話帳の上でタイムトラベルすることにした。つまり、その年から過去に時を遡るようにずっと電話帳を見ていけばいいわけだ。

「ぼく」はかなりせまい図書閲覧室の机の上に電話帳を並べて、時間旅行を開始する。

すると、何とこの電話番号は昭和四一年八月一日発行の電話帳にまで遡ることができたのだ。

ビックリした。これほど過去に逆行できるとは思ってもみなかった。せいぜい四年か五年だろうと思っていた。てっきり、Kの大学時代の仮の住まいだと思っていたのに。

 結局、「ぼく」は何度も逓信協会の女性職員に請求票を渡すはめになった。

 

ひどく気になったのは、電話が使われていた、その所在地だ。

Kが大学を卒業した昭和五六年版では、確かに卒業名簿と同じ「大田区東Y谷」という住所になっている。

ところが、最初に電話帳に記載された昭和四一年版から昭和四四年版までの住所は単なる「大田区Y谷」になっていた。また番地も異なっている。

 それが、昭和四五年発行版では住所が「南Y谷」になり、そして昭和四六年版からは「東Y谷」に変わっているのだ。

「ぼく」は一瞬とまどい、思考する。

まず、昭和四一年から四四年までの単なる「Y谷」という住所は旧住居表示だろう。高度経済成長期に土地の区画整理が進行したと考えられる。この場合、東西南北が町名に冠せられるのは町名変更のよくあるパターンだから、おかしくはない。また、その際に地番も変更されていて不思議はない。おそらく昭和四五年に住居表示変更がされたのだろう、と推測できる。

 さて、そうすると、おかしな点がある。

  つまり、昭和四五年の住所「大田区南Y谷」は住居表示変更後のものと考えられるが、その後にK姓の人物は「南Y谷」から「東Y谷」へ引越していることになるわけだ。ここで電話番号そのものが変わっていないのは、おそらく移転場所が近く、管轄電話局が同じせいだろう。

 一度、引っ越していることは間違いない!

 今度は逆に時を下ってみることにする。

「ぼく」は台車に今までの昭和五六年版以前の電話帳を載せて返却し、あらためて昭和五七年版以降の電話帳を請求する。それまでにかなりの手をわずらわせているにも関わらず、親切に博物館部の女性職員は応じてくれた。

 しばらく待つと、ガラガラという聞き慣れた台車の音が聞こえてきた。

 「ぼく」は電話帳で、昭和五七年から時を下っていく。すると、何と現在に至るまでK姓の人間がその電話番号を使用していることがわかったのだ。

 何ということだ!

 電話帳はウソをつかない。常識的に考えれば、今もその住所にはK姓の人物が住んでいることは間違いのない事実だった。

昭和四六年(一九七一年)から現在に至るまで、二十年以上もの間!

この人物はいったい何者なのだろう。そういえば以前Kの尾行に失敗した時に、タクシーからKが降りた場所はこのあたりだった。そうだ、あの時、Kはこの人物をたずねたのではないか……。

 「ぼく」は逓信総合博物館を後にして、地下鉄に乗る。アパートまでの帰りがけの間、ずっとK姓の人物のことを考えていた。

 

 誰だ、お前は誰だ、誰なんだ。

 

 謎は深まっていった……。

 

 

 

>>>NEXT      >>>BACK